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g_03.gif エリーシア戦記

...Record Of Ariesia War...


[back.gif第五十五章] [本棚] [next.gif第五十七章]
第56章 金枝玉葉


【神聖紀1232年5月上旬、セリア】
 白いタオルでチョコレート色の髪を包み、膝を抱いて、湯船に小柄だが肉付きの良い裸体を沈めていた。
「何も考えちゃダメ……」
 湯面に向かって囁くと、小さな波紋が広がっていく。
「――でしょうか?」
「あ、はい」
 半分ほど聞き漏らしてしまい、外からの声に慌てて返事する。
「失礼致します」
 フェルディア人の侍女が入ってきた。そして、フェルディア産の甘い香りのする石鹸で泡を立て、若々しい裸体を、丹念に磨き上げていく。
 全てを終えて、脱衣場へ出る。棚に、白い夜着が用意されていた。それを着て、鏡の前に坐る。柔和な丸みのある美顔が、ほんのりと赤く火照っていた。
「試験を受けるのと同じ、と考えればいいのよ……」
 余りの心細さに、小さく零す。
 しばらくすると、入った扉とは逆方向の扉が開いた。
「こちらへ」
 促されるままに外の出ると、ほの暗い廊下に、細身の長身を黒いコートで包んだ女性戦士が待っていた。墨色の髪が、顔半分に被っているが、目尻の釣り上がった鋭い眼光を隠し切れていない。
 これが鎮守直廊三人衆の一人キーラ・ゼーダーシュトレームであろう、と思い至る。やはり、浴室まで付き添った親衛隊のアン・ツェーイなどとは、醸し出す威圧感がまるで違う。
「な?」
 いきなり、そのキーラから、髪をまさぐられる。武器を隠し持っていないかどうか、調べているようだった。
「よろしい。付いて来られよ」
 全身を隈なく調べ尽くすと、淡々と言い残して、キーラが歩き出した。
 廊下の先にランプがあり、キーラの大きな影が足元まで延びてくる。慌てて髪を直すと、その影を踏むように歩き始めた。
――ここを通ってしまえば、もう後戻りはできないのね。だめ、何も考えちゃダメ……。
 下唇を噛んで、小刻みに頭を揺すってみた。そうやって、不安に押しつぶされそうな心を何とか励まし、また一歩前へ進む。
 そして、また扉が見えてきた。
「アルティガルドが造った物だ。大仰だろ?」
 キーラは失笑すると、扉に刻まれたルーン文字に魔力を注いで、パスワードを入力した。
 内側は、主寝室の控えの間である。
 そこに、切れ長の三白眼の女戦士が待っていた。左の目元に、二つ並んだホクロがあり、髪は、毛先がランダムに外へはねている。
 女戦死は無言のまま、目で化粧台を指す。
「他も、これを使う」
 ぶっきらぼうに告げる。つまり汚すなという意味なのだろう。
 言われるままに、再び鏡に向かう。そこには蒼褪めた顔が映し出されていた。唇は、今にも震え出しそうで、瞳は挙動不審に微動している。
――情けない……。これがユーグ・ルクレールの末裔の姿か……。
 その背後で、雑談が始まる。
「上帝陛下は、まだ筋トレを?」
「ああ、そうとう不機嫌であられる」
「やはり皇子のお名前の件か?」
「そうだ」
「母親が勝手をするからだ」
「だがそうなればなったで、見物だったぞ」
 二人の女戦士がくすくすと忍び笑いする。
 春、ティルローズは見事男子を出産した。その恩赦を理由に、オーギュストは謹慎を止めて、『上帝』と呼称されるようになった。だが、その僅かな空白期間に、ティルローズは我が子を『カール(カール6世)』と名付けてしまった。
「一言の相談もなく!」
 あとで知って、オーギュストは激怒する。本来ならば、『オーギュストJr.』と名付けるつもりでいた、と側近にもらした。
 と、雑談の声を鈴の音が打ち消す。
「お渡りになられたようだ」
 女戦士は、首に下げていた鍵を同時に差し込んで、「3、2、1」と合わせて回す。
 奥の扉がゆっくりと開いた。

 目覚めて最初に瞳に映ったのは、漆黒の空に散らばった星星の輝きだった。
――ああ、きれい……。
 周りから草木の香りが流れてきて、その心地良さにまた瞼を閉じる。
 きっと野原でキャンプをしていたのだろう、とぼんやり思う。
――そんな筈はない……!
 急に違和感が浮き上がってきて、慌てて頭をもたげる。
「いたっ……」
 首が鋼のように固く重い。さらに、腰や脚に、感じた事のない痛みがある。起き上がることを諦めて、もう一度枕へ頭を戻した。
 ドーム状の天井には、鮮やかな星空が、円形の壁には、ぐるりと山脈が描かれている。そして、部屋中に観葉植物が飾られていた。室内に野原を再現してあるのだろう。
――やはり夢ではなかったのね……。
 己が、深い竪穴の底に引きずり落とされたような気がした。
 昨夜、主寝室に入ると、オーギュストは、タオルを腰に巻き、もう一枚を肩にかけて、牛乳を飲んでいた。そして、口元を腕でぬぐいながら、とぼけた声を発した。
「どうしたの?」
「……」
 思わず顔を赤らめて俯く。ほぼ裸の男を、まともに見ることができない。
「夜伽に参上仕りました」
 すぐに、背後のキーラが如才なく告げる。
「ああ」
 今宵の相手を一瞥して、オーギュストはさらりと唸った。そして、軽い質問を幾つか繰り返した。
 歳は?
 趣味は?
 好きな物語は?
 しかし、身体は石のように固まって、声を出す事ができない。
 一切会話は盛り上がらず、痛い沈黙が部屋に満ちる。そんな中、強引にベッドへ誘われた。
 戦場を往来してきた、鍛え上げられた男の筋骨が覆い被さる。重なった肌は、熱く火照り、ほのかに蒸気を登らせていた。
 恥ずかしさに、両手で顔を隠そうとしたが、その手を力強く押さえ込まれた。そして、じたばたと暴れる脚の間を割られて、荒々しく弄られた。一瞬、激しい痛みが嵐のように吹き抜けた。
 身体に、まだ異物が残っているような違和感があった。
 隣のオーギュストを起こさぬように、そっとベッドを抜け出し、静かに控え室へ向かった。サンドラが椅子に凭れてうつらうつらとしていた。
 予め用意されていた新しい服に衣擦れの音をたてながら着替えると、化粧台の前に坐る。
 鏡に映る顔は、昨夜と別段何も変わっていなかった。ただ、薄く引いた口紅が口の端に広がり、髪が乱雑にはねている。胸元には、無数の虫に刺されたような赤い痕がある。と、急に鏡が滲んでいく。
「終わったら……」
 背後で、サンドラの低い声がする。
「朝の挨拶がある」
「はい」
 素早く目元を抜き、髪を梳ってから化粧を直した。
 寝室へ戻ると、オーギュストが、ベッドに胡座をかいて大欠伸をしていた。
「おはようございます。ご機嫌うるわしゅう……」
 恭しく頭を下げる。しかし、挨拶の言葉を述べるにつれて、胸の鼓動が高まっていく。ついに喉が詰まってしまう。本来なら、『お情けをいただき、ありがとうございました』と続けるべきなのだが、唇が思い通りに動いてくれない。
「また召そう」
 オーギュストは淡々と言った。


――アーカス教会。
 落成したアーカス教会の中を、クリスティーとアレックス・フェリペ・デ・オルテガ鎮西将軍が並んで歩いている。
「草原の方はどうです?」
「あの敗北が記憶に新しい。すぐに動く気配はない。――が、何れは必ず動く」
 アレックスは、不屈の決意が漲った眼光を虚空へと向ける。
 痩せているが、貴公子らしい端正な顔立ちをしている。しかし、その印象を裏切るように、眼窩の窪んだ目は、獲物を付け狙う狼のように鋭く、口は意志が強そうに引き締まっている。カリハバール戦役では、領土を蹂躙され、家族を無残に奪われた。誰よりも長く戦場に立ち続ける男には、独特の哀愁と死臭が漂っている。
「その時は、貴方が先鋒です。貴方なら抜かりはないでしょう」
「無論だ。今度は皆殺しにしてやる」
 低く言い放った直後、視界が霞み、脳考が眩むほどに血が滾る。喚き出したい感情を沈めるために、アレックスは立ち止まり、唇の力を抜いて、ゆっくりと首を回した。
「しかし――」
 目が、カリハバール戦役を題材にした壁画で留まる。
「あれは誰だ?」
 掲げた指の先には、オーギュストの傍ら立つ戦士がいる。その鎧に、アーカス王の紋章が刻まれていた。
「ああ」
 クリスティーは、『気付いた』と囁いて、爽やかに微笑んだ。
「今は誰でもないわ。でも、50年、100年後には、相応しい名前が与えられている事でしょう」
「恐いねぇ」
 アレックスは首を竦める。
「槍一本の俺には難しいが、そんなお前にしては、ティルローズ様に、気前がいいじゃないか?」
 じろりとクリスティーを見た。鋭いだけに、このような目付きをすると、意地悪く見えてしまう。
「あれは――」
 クリスティーは柔らかな表情で、じっくりと解説する口調で答える。
「ああ見えても、上帝陛下とティルローズ殿の絆は固いのですよ。だから、ティルローズに国を背負わせることにしました。旧態依然とした国です。古来の秩序さえ守っていれば正しいと信じて疑わない連中の国です。一方、上帝陛下は、革新の象徴のような方。本人同士の思いなど関係なく、周囲は対立を深めていくことでしょう」
「それは嫉妬か?」」
 探るような陰湿な声で問う。
「……」
 クリスティーは真顔で一瞥したが、すぐに笑顔に戻った。
「グィネビィア妃とシャルロットをアルティガルドに戻した事で、ウェーデリアは忠誠心の全てを上帝陛下に捧げる事はなくなった。ロードレスは遠く、サイアに、ふっ、何ができる?」
 クリスティーの熱を帯びた声が、薄暗い教会の巨大な空洞に幾重にも響く。
「上帝陛下を渾身から支えるのは、わたくしとアーカスの忠勇なる将兵のみ」
 アレックスは内心口笛を吹きたい気分になった。明らかに、クリスティーは我が田に水を引いている。

――テルトレ離宮。
 長い廊下を親衛隊の幹部達が、荒々しくブーツを鳴らしながら歩いている。
「何故、親衛隊員が拘束されるのだ?」
 声を張ったのは、新隊長のナン・ディアン中佐である。前隊長の刀根小次郎が栄転して隊を離れると、第二代隊長に昇進した。故ナルセスの次男ということもあり、周囲の期待は大きい。
 その就任直後に、事件が起こった。
 セリア内の宮殿はすべて親衛隊が警備していたが、ティルローズは、ペルレス・ド・カーティス白威将軍を『禁衛府長官』に任命して、さらに『禁衛府皇宮衛士隊』を結成した。
 この皇宮衛士隊に、ノイエ・ルミナリエ宮殿の警備を任せ、さらに、サリス人士官は一階級上に遇される、と一方的に宣言してしまう。
 そして、その夜、親衛隊に追われた不審者が、ノイエ・ルミナリエ宮殿の閉鎖地区へ逃げ込んだ。親衛隊は、敷地内へ踏み込んで一味を討ったが、その後、皇宮衛士隊に、不法侵入した、として捕らわれてしまう。
「あいつら図に乗りやがって! いっそ攻め込みましょう」
 ナンの後ろを歩いていた、バン・ミッチェル中隊長が威勢のよい事を言う。その言葉にナンは、我が意を得たり、とばかりに口を開きかけたが、すぐにアン・ツェーイ副隊長が批判の声を上げた。
「馬鹿を言え。ティルローズ様は、ローズマリー様の妹であられる。ローズマリー様が嘆かれるぞ!」
「アンの言うとおりだ」
 すぐに、ダン・ディートリッシュ中隊長が、力強く同意する。
 これに、全員が口を閉ざしてしまった。
「ヤン大尉に相談されては?」
 静まると、アンはナンに耳打ちした。
 ヤン・ドレイクハーブンは、統帥府参謀本部に転属になっている。そして早速、取り潰しになった貴族の領地受け取りを成功させるなど、総帥府でも頭角を現していた。
「これは親衛隊の問題だ……」
 ナンは渋い表情をする。

――武家屋敷街の剣技場。
「親衛隊がもめている」
 この翌日の夕刻、アンはヤンの元を訪ねる。
 ヤンは小さな剣技場の脇で、防具を身につけていた。黄昏色の光が、長く差し込んで、磨き上げられた床を、オレンジ色に染めていた。
「ああ、聞いているよ。よくないね」
 ヤンは、あっさり答えると、木剣を握って立ち上がる。
「よくないどころじゃないだろ。OBとして、協力してほしい」
「邪魔なだけだろう」
「邪魔って……」
 不服そうな声を背中に聞いて、ヤンは徐に振り返った。
「今の親衛隊は、全員ローズマリー様に心を寄せている。最初から、我ら三人(小次郎、ヤン、ラン)の方が異質だった」
「そうだが……」
 アンは口篭る。
「それに、ナンには、実家という後ろ盾もある。上層部もナルセス・ディアンの名を汚すようなことはしないさ」
「そうだろうか?」
「恐いのは、孤立されるティルローズ様の方だ。無茶をなさらないとよいが……」
「あの人から無茶を取ったら何も残らない」
「確かに」
 ヤンは思わず失笑する。と、上座で稽古を見守っている師範代が、渋い表情で咳払いをした。アンは冷徹な眼差しで睨み返す。これに、師範代は怯えて、背を向けてしまった。
 ヤンはアンに目で挨拶すると、一旦足元に視線を落として、呼吸を整え、表情を引き締め直す。
「セィ」
 そして、気合を発して、前へ出て、稽古相手へ一礼した。
「やぁ」
 相手が短い気合とともに、正眼から斬り込む。ヤンは軽やかに左右に跳んで受け流し、最後に木剣をはね返した。相手は奇声に焦りを滲ませて、八双に構え直した。
「やあ!」
 大きく打ち込む気配が伝わってくる。
 その瞬間、ヤンは木剣を下段に落とした。
 ほぼ同時に、二人は踏み込み、影が交差する。
 八双からの打ち込みを、ヤンは下段から摺り上げた。そして、大きく左へ踏み出して、相手の右腹を払いながらすれ違う。
「お見事!」
 鮮やかな剣技に、アンが賞賛した。

 ヤンの言葉通りに、ナンはこの時実家のディアン男爵家に駆け込んでいた。即座に母親のエヴァは、統帥府総長のリューフに相談する。リューフはノイエ・ルミナリエ宮殿へ行き、忽ち禁衛府を一喝して、拘束されていた親衛隊隊員を解放させた。
 事件はあっさりと解決したが、以後、禁衛府は統帥府とも溝を作ることとなる。



【5月中旬、セリア】
 アルティガルド戦役の論功行賞があらかた片付くと、オーギュストは、無断で魔術儀式を行う事を、さらに、魔術アイテムの許可なく所有することを禁止する、新しい法を発布した。
 各地の魔術師や農村や町に根付いていた占師や預言者、そして、エリース教会に対して、魔術アイテムの没収が始まった。これに応じない者には、徹底した強圧手段でのぞんだ。
「大尉、おはよう」
 早朝、ヤンが統帥府に出勤すると、玄関前の大階段でランに声をかけられた。ランは松葉杖をして、右足を庇っていた。
「やあ、ラン中尉。昨日はおめでとう。素晴らしい勝利だね」
「まあまあだね」
 ランは照れて、頭を掻いた。
「謙遜を。あの剣の速さ、そして、邪剣をかわしての一撃。ランさんにしかできない技だ」
「ま〜あね。そうかもね〜え」
 ランの鼻孔が大きく膨らんだ。
 昨日、ランはアーカス騎士と試合している。
 北陵流に構えると、立てた剣先が左右にふわりと不規則に揺れていた。恰も風に吹かれる葦のようである。これまでのランにはない構えであろう。観戦していたヤンは首を捻ったが、すぐにランの心が無心に近付いているように感じられた。剣と心身が一体化している、とヤンは思った。
 先の相手が動いた。ランは落ちてくる剣を受けようともせず、左足を引いて、渾身の一撃を放った。遅れて振った剣にも拘らず、先にランの剣が相手の肩を叩いた。その一閃に、ヤンは目を瞠った。
 ランは勝利を誇るように、どっと膝をついて肩を押さえている相手の頭上に剣を向けた。
 その時、相手の目が光った。膝を立てた低い姿勢から、地面を這うように剣を走らせる。
 思わず、卑怯な、とヤンが叫んでいた。
 咄嗟にランは高く舞い上がって、その卑劣な剣をギリギリでかわすと、相手の額へ木剣を振り下ろした。
 勝負は決した。だが、ランは着地に失敗して、足首を捻ってしまう。
「今度、稽古をしよう」
「いいよ」
 ランは屈託なく頷く。瞳は、自信に満ちていた。
 そこへ、馬の蹄の音が聞こえてくる。
「よ、お二人さん」
 馬上で、刀根小次郎が気さくな声を発していた。
「将軍、おはようございます」
 階段を登っていた全員が、背筋を伸ばして、敬礼する。
「君が大尉で、彼が将軍か……変だね」
「え?」
 ランが、皮肉っぽく耳打ちした。
「将軍も立派な手柄を上げているよ」
 ヤンは、低い抑揚のない声で答える。
 小次郎が将軍になれた理由は分かっている。それをとやかく言うつもりは毛頭ない。世の中とはそういうものだろう。ただ否な噂を耳にしていた。
「……」
 ヤンは気付かれぬように、ランをちらりと横目で見る。ロックハート家が、ランの双子の姉を差し出すのでは、という噂が参謀本部で流れていた。
 それが真実だとすれば、ランはどのような行動を起こすだろうか、そして、自分はどう決断するだろうか、ぼんやりとした不安が胸を過ぎる。
「やあ、しばらく」
 小次郎は笑顔で下馬すると、二人と親しげに拳をぶつけ合う。
「北サリスの八嶽党(魔術師集団)を殲滅したそうですね」
 ヤンが言う。
「ああ、難儀な相手だったが、最後は情報戦がものを言った」
「ここだけの話。上帝陛下の姿が見えなかったのが、勝因だろう?」
 ランがウィンクしながら、ニヤリと囁く。
 すると、小次郎の目が慌てて、「止せ」と告げる。
「え?」
 ランが怪訝そうに眉を寄せると、小次郎の背後に止まった馬車の扉が開く。
「カスペン大佐ーーーぁ」
 オーギュストが、泣きじゃくりながら降りてきた。
「連邦の蛆虫めーーーぇ」
「陛下、顔を拭いてください」
 オーギュストの後ろから、ハンカチを差し出しながら留理子が降りてくる。
「昨夜の戯曲がまだ抜けていない……」
 身も魂も凍り付かせたランに、ぼそりと小次郎が耳打ちする。


――北辺、トラペサ大河南岸『バクト砦』。
 カイマルク攻略を目指すロードレス軍は、トラペサ大河に沿って進軍して、バクト砦を攻略した。
 砦の片隅、未だ焼け跡から黒煙が昇る傍らで、致命傷を受けた少年兵が、最期の時を迎えようとしていた。
「み、水を……」
 虚空へ伸ばした手が、不意に柔らかな温もりに包まれた。
「さあ、これを」
 少年の目に、女神が映る。
――なんて美しい……!
 白く霞みつつあった世界に、さっと色が広がった。黒煙で黒ずんだ空は蒼穹に輝き、大地に花が咲き乱れる。風は清らかに流れていた。
「女神様……ありが……」
 唇に零れた水を飲み込む事はできなかった。
「酷い事だ。こんな少年まで戦場に駆り出すとは……」
 息絶えた少年兵が、再び灰褐色の冷たい大地に降ろされる。
「進撃を中止せよ」
 燻ぶる炎のような声が、低く響く。
「猊下?」
「セリアへ使者を出せ。援軍を請う、とな」
「……し、しかし」
「このまま戦い続ければ、敵に被害が増すばかりだ。大軍を擁して、降伏させた方が得策だ」
「はい」
「この悲しみを我が身に全て引き受けよう。そして、今誓おう!」
 アフロディースは少年の亡骸に祈りを捧げた後、ぐっと強く拳を握り締めた。
「アポロガイストを倒して、北辺に平和を取り戻す」
 凛々しく立ち上がったアフロディースに、部下達が跪く。どの顔にも、この史上最も美しい、と信じて疑わない女性への忠誠心に満ち溢れている。そして、純な光を放つ瞳は、この女性のためならば死ぬ事さえ厭わない、と告げている。


――統帥府。
 会議室には、すでに諸将が集まっていた。 左端にリューフ。その隣にアレックスがいる。二人は、並んで談笑していた。両名とも実力実績ともに誰もが認める存在である。その隣に、パーシヴァル・ロックハートが固く口を閉ざして坐っている。
 ワ国人の血が混じっているのか、瞳も髪も黒く、背は然程高くない。しかし、肩幅は広く、胸板も厚く、武人らしい武人の風貌をしていた。
 その物静かで安定した人格から、オーギュストの信頼も厚く、度々参謀役を務めている。また、アルティガルド戦役では、カッシー州牧として重要な囮役も務めた。
 オーギュストの姿を見ると、一瞬で諸将は緊張の気配を漲らせる。その後に、幕僚総監のザウリ、情報本部長の刀根留理子、兵器本廠長の皆藤などが入室した。
 オーギュストが席に着くと、ザウリの副官が、用意していた地図を壁に貼る。
「カイマルクである」
 徐にザウリが発言して、指揮棒で大河の傍らの街を指す。
「現在、旧カイマルク公国の残党が、公国の復興を宣言している。しかし、その影に、アポロガイストがいることは明白。安全保障上、彼の危険人物を、野放しにする訳にはいかん」
 北辺には、とびはなれたロードレスやフェルディアといった領地があるが、これらを北辺地域の要衝であるカイマルクが分断している。これを併呑すれば、北辺に確固とした勢力圏を構える事ができる。
「東の上流よりロードレスのアフロディース殿が、北からフェルディアのライラ殿が、そして、南からサイア勢が包囲している」
 続けてカイマルク出兵の説明が始まる。その総司令官には、三番手のロックハートが内定していた。
「よし」
 オーギュストは計画書から目を上げると、そのロックハートを見遣る。
「アポロガイストは名うての用兵家だ。ペテンには十分な警戒を」
「はっ」
 ロックハートは気合の漲る返事をした。
「勝ってくれたら、プロホノウ名誉勲章を与えるぞ」
「誰です、それ?」
 その時、参謀の末席にあって、ヤンはバラムやパルディアの裏切りについて一抹の不安を抱いていた。しかし、それをこの場で口に出す勇気がない。
 そうこうしている内に、議論は、カリハバールに移ってしまった。ヤンは一人喉の渇きに耐える。
「これがヨルムンガンド試作対ドラゴン決戦砲の概要である」
 アレックスが身を乗り出して、設計図を食い入るように見詰める。そして、その異様な姿に驚愕して兵器本廠長を睨んだ。
「何だ、このムカデのような姿は?」
「ダイヤモンドの巨大な杭を、風の精霊を使って、多段加速することができる。これによって、ドラゴンの視界外から攻撃でき、その鱗を貫くことができる」
 自信たっぷりに、力強く言い放つ。
「小次郎」
 そして、オーギュストが、鋭気をこめた声を発した。
「はっ」
 呼ばれた小次郎が末席で立ち上がり、背筋を伸ばす。
「実用試験と運用を任せる」


 その夜、オーギュストはヴァレリーを召して、舟遊びに興じた。
 船内の天井は低く、大きな梁が頭上に垂れ落ちるように横たわっている。窓はなく、隅に置かれた薄暗い照明が、微かに揺らいで、ワインレッドの絨毯と同色のソファーを照らしている。
 オーギュストはソファーに胡座をかいて酒を飲み、ヴァレリーの肩に腕を回していた。
 ヴァレリーは、恥ずかしそうに顔を伏せている。胸元の開いたピンクのショートドレスをまとい、瑞々しく張った二つの膨らみを大胆に露出させている。
「その新兵器は、活躍するでしょうか?」
 酒を注ぎながら、震える声で問う。
「どうだろう」
 オーギュストは十分に間を取ってから、答え始めた。
「一発打つたびに、小国の予算が吹っ飛ぶ。初弾を外した場合は、的になるだけだろうしね」
「……そうですか」
 ヴァレリーは、オーギュストの声を脳に刻み込む。この夜伽のために、多額の賄賂を払っているのだ。夜が明けぬうちに、パルディアへ書状を送らねばならない。それが、父王から与えられた使命である。
 オーギュストは、ドレスの中に手を差し込んで、乳ぶさを掴んだ。とてもじゃないが手に治まらない。下からすくって揉むとずしりと量感があった。
「なぜ、陛下はご出陣なさらないのですか?」
 顔を固くして訊ねる。
「おれ?」
 オーギュストの赤い瞳が素早く横に動いて、ヴァレリーを見遣った。
「も、申し訳ございません……」
「構わんよ」
 笑顔が眩しい美貌が、子羊のように怯えている。オーギュストはダンディーを気取ってみせたが、目が谷間に釘付けになっている。胸の秘力は、なんと甚大であろうか。
「俺は……ごくぅ」
 格好良く諭すように喋るつもりが、思わず生唾を飲み込んだ。慌てて咳払いして、何もなかったように話し出す。
「俺は魔術師狩りで忙しい。誰も手伝ってくれないからな。君の父上も、協力的を惜しんでいるようだ。もう少し本腰を入れて欲しいね」
 耳元で囁いた。
「……は、はい」
 ヴァレリーは竦んでいたが、「もう一つ」と喉の奥から搾り出す。
「シカム島の没収もありうるのでしょうか……?」
「それは……」
 さすがにオーギュストも口を濁した。
「君の父親次第だ」
 一気に飲み干すと、グラスを床に投げ捨てる。そして、ヴァレリーの胸もとを強引に開いた。
「ああ……」
 圧倒的なボリュームを誇る巨乳が、その全容を現す。重力の呪縛を断ち切って、些かも垂れることなく、誇らしげに盛り上がっている。
 乳首は、乳ぶさの大きさに比べて小振りで、薄桃色の突起がツンッと上を向いている。
――こ、これは……。
 言語に絶する、とはこのことであろう。
 触れると手に吸いつくように肌理が細かく、指先を包み込むようにふわりと柔らかい。それでいて、奥にしっかりと芯があり、程よい弾力を指へ伝えてくる。もう指たちが、終の棲家を見つけたとばかりに、離れようとしない。
「…んっ……」
 指の動きに合わせて、自由自在に豊満な膨らみが形を変える。思わず、我を忘れてしまい、揉み遊んでしまう。
「……んぅ」
 不意にヴァレリーは、自分の手を、乳ぶさを揉むくオーギュストの手の上に重ね合わせる。それが彼女にできる精一杯の抵抗であったろう。
 オーギュストは手をそのままに、むき出しのうなじを、鼻でくすぐり始める。
「ふぅ……ああ」
 それから耳へと舌を伸ばす。
――あの娘より、大きいだろうか……。
 淫技を駆使していると、ふいに別の女性を思い浮かべた。
 次第に、ヴァレリーの身体から力が抜けていく。胸をもまれ、首の周囲を執拗に舐められて、意識が揺らいでしまったのだろう。
 手が外れると、オーギュストは、迷わず乳ぶさにむしゃぶりつく。
 ぴちゃ、ぴゅちゃ。
 と、卑猥な音をたてながら、舌先で乳輪を模り、舌腹で乳首を弾き、そして、唇を窄めて吸い上げた。
「……んんっ……うんっ……はんっ……」
 もう一方の頂点の蕾には、中指と薬指の間で軽く挟んで擦り上げ、時に爪で掻いた。
 ヴァレリーは、苦しげに固く瞼を閉じている。とても官能的とはいえない表情であろう。
 オーギュストは体を起こすと、ソファーに横たわるヴァレリーを見下ろした。
 背は然程高くなく、腰は細くくびれて、脚は長いが、ややぽっちゃりとしているだろう。全体的に厚く、横への広がりはない。下腹部は、チョコレート色の恥毛がよく茂り、綺麗な逆三角形に手入れされている。秘所の切れ込みは、まだ弛んでおらず、一本の線を描いている。
――急ぐ事はない……。
 この身体を女にするには、まだ月日がかかりそうだった。それもよかろう。少しずつ開花させていくのも、男の嗜みと言えよう。


【5月下旬】
 朝からセリアは厚い雲が低く垂れ込めて、街を暗灰色に霞めていた。午後になると、横殴りの雨が降り始め、街を冷たく濡らし尽くしていく。夜になっても雨は止まず、風は益々強くなって荒れ狂った。
『やおら立ち上がりました武者。ルナチタニウム白銀縅の大鎧に、白檀みがきの籠手脛当て……』
 夜半、夜勤の親衛隊員たちが詰め所に集まっていた。この夜は、講談師を招いて、暇を潰そうというのである。無論、不謹慎な行為であるが、それを取り締まるべきナンが、最前列で、「待ってました」と盛り上がっていた。
 講談師の語りに熱が入ってきた時、突然、地響きがして、魔術結界が消えた。

 その頃、嵐の中で、オーギュストはヴァレリーを抱いていた。
 ヴァレリーは太腿を抱えて、M字型に脚を開いている。ピタリと閉ざした秘唇は、ほのかな褐色に色付いているだけで、まだ稀な清らかさを保っている。
 顔を埋めると、甘酸っぱい匂いがした。花弁を指でめくり返すと、柘榴の実を割ったような艶めかしい柔肉がむき出された。
 引き寄せられるように舌を押し付ける。微かな酸味が舌を刺激した。
「ヒィっ」
 いきなり敏感な箇所を襲われて、ヴァレリーは短く悲鳴を上げた。
 そのBGMを聞きながら、オーギュストは血の騒ぎを感じつつ、二枚の花弁を吸い込んで、舌で弄る。
「だ、ダメぇ……そ、そんなところ、うう、いやぁ、いやン」
 ヴァレリーは羞恥に顔を覆い、脚を閉ざそうと、オーギュストの頭を挟んだ。しかし、柔らかくて温かな太腿の肉に包まれて、オーギュストの興奮がさらに高まっていく。舌をもう一度柔肉へ這わせて、なっとりと肉の豆に向かって舐め上げた。
「あ、あ、うううっ……」
 こそばゆい感触が股間で生まれて、次第に背筋をゾゾッとした寒気が押し登っていく。
――こ、恐い……。
 思わず、肢体が逃げるようにのたうつ。しかし、オーギュストが太腿をがっちり押さえ込んでいて、オーギュストの口から逃れる事ができない。上半身だけが振り子のようにベッドの白いシーツの上で揺れる。
 その間に、粘膜が何度も何度もかき回させて、ぬちゃりぬちゃりと卑猥な水音が立てていた。
「ああ、ああン」
 そうするうちに鼻を鳴らすと、腰をもじもじと捻っていく。
「ひっ、ひいい……」
 いきなり、紅色に充血して硬く突起した肉芽を唇で啄ばみ、次いで、舌で転がした。
 ヴァレリーはさらに激しく反応した。チョコレート色の髪を振り乱して、オーギュストの髪を毟るように掴む。
 身体を貫いた寒気は、手足の先では、針で刺されたようなピリッとした痛みとなり、感覚を麻痺させ、脳に至っては、ふわりと生温かな澱みとなって、思考をぼんやりと鈍らせている。
――な、何かが……。
 自分でも何か得体の知れない物が膨らんでいるのが分かる。それがオーギュストの口へ向かって、堰を切って出て行くのだ。
 刹那の躊躇いがあった。極一瞬の理性の警鐘だったのだろう。だが、わけなく越えてしまえば、そのえも言われぬ満足感や幸福感に心が満たされる。それが快楽という言葉だとヴァレリーはまだ知らない。
 ゴク、ゴクッ、ゴク。
 オーギュストは滲み出た蜜を啜る。
 ヴァレリーは身を仰け反らして、ブルルっ、と気持ち良さそうに身震いしていた。
 その時、エマージェンシーコールがテルトレ離宮に鳴り響いた。
「申し上げます」
 サンドラが部屋の隅に跪く。オーギュストは顔を上げると、口元の蜜を腕で拭った。
「侵入者です」

「侵入者だ」
 親衛隊が慌ただしく動き回っている。
「何故だ。何故侵入を許した?」
「嵐の影響で、一時的に結界への魔力供給ラインがダウンしました」
「忌々しい……」
 ナンが舌打ちをした。
「潜入した敵の数、決して多くはない」

「行き止まりだ……」
 雷光に、黒衣の魔術師の一団が浮かび上がる。彼らは、偽の情報につられて、西翼の一角に誘い込まれていた。
「戻れ。家族のためにも、何としても一矢報いるのだ」
「おお!」
 戦意が衰えるどころか、さらに目を殺気立たせて踵を返す。しかし、すでに親衛隊の精鋭に取り囲まれていた。
「大人しく投降しろ」
 ランが一歩前に出る。
 だが、説得に応じる者はなく、魔法の杖をかざして、詠唱を始める。
「キィアアアア!」
 ランが渾身の一撃を打ち込むが、足首が痛んで、思うように踏み込めない。深いローブを切り裂いたのみだった。
「魔獣人……なのか?」
 ランは絶句した。魔術師の肌は鋼のように黒く、瞳は獣ように狂い、口は裂け、歯は牙となって突き出ている。
 その一人目に続いて、五人の魔術師がローブを脱ぎ捨てた。
「八つ裂きにしてやるぅううう!!」
 一際大きい魔獣人が吼える。
「闇に魂を売ったか」
 ランが眼光を鋭くして、北陵流に構える。
 互いの気合が充実して、一斉に魔獣人が動き出した。
「殺せぇーッ!!」
 口々に呪いの言葉を吐く。
 ランは突進してくる一人目に、斬撃を落とした。魔獣人は白刃鳥を失敗したように、額で剣を受け、その後に合掌している。
「うぐっ!?」
 魔獣人は討ち取ったが、ランは剣を引き抜く事ができない。そこへ、二人目、三人目の魔獣人が迫った。
「姉御、邪魔です。退いて下さい」
 ランの背後で、猪野香子が駆けつける。そして、扇を仰ぐと、五体のウリボウを瞬時に召喚して、魔獣人たちを退けた。
「はっ」
 さらに、ランを前転しながら飛び越えると、扇に仕込んでいた剣を抜く。
 即座に、先頭の一人に殴りかかってくる。それを、身を屈めてかわすと、魔獣人の脇をすり抜ける。すぐに二人目が来るが、その頭上を伸身の前転一回捻りをしてかわした。さらに、三人目、四人目が同時に来る。片方は腕を掴んで背負い投げし、即座に、後方に宙返りしながら、もう一方の後頭部を蹴って倒す。
 刹那、四人の魔獣人が、一列に並んでいる。
「ラン派北陵流、香車の雀刺し!!」
 仕込み剣で突きを放った。細い剣先が、魔獣人たちを次々に貫かれていく。そして、四人の体を串刺しにしたまま駆けて、壁に打ちつけた。
「次は貴様だ」
 香子は、扇から再び仕込み剣を抜くと、最後のリーダー格を睨んだ。
「ガルルルゥ!」
 最後のリーダー格は半狂乱になって、左右の腕を大振りしながら突進する。体格も大きく、その腕の振りも速いが、香子はその攻撃を必要最小限の動きで間一髪避け続ける。そして、落ち着き払って、北陵流の構えをとった。
「もはや理性も失せたか……一思いに倒すことこそ武人の情け」
 香子は顔の横に立てた剣を、渾身の力で振り下ろす。
「ラン派北陵流一の太刀」
 魔獣人の首で、一閃のきらめきが散った。魔獣人がおびただしい血を吹き出しながら、床に伏せていく。
「オーギュスト大師匠門下、ラン天才剣士の一番弟子、香子様の敵ではないわぁ!!」
 残った魔術師達へ見得を切る。
「……」
 ランは唖然と香子を見遣った。
――いつの間に……。

 翌朝、オーギュストは書庫で本を探していた。カ行の棚を一冊ずつ慎重に背表紙を確認している。
 そこへ人目を忍んで、ランが近付く。
「し、師匠〜ぉ」
 いきなり泣き声を上げる。
「何だ、何だ?」
 驚いて振り返ると、ランが涙目で立っていた。
「香子が強いですぅ」
「当然だ。あの娘は素直だから、俺の指示通りに稽古している。我流にはしって無駄な事ばかりやっているお前とは違うさ」
「そんな〜ぁ」
 おいおいと泣き崩れて、しゃがみ込んだ。
「安心しろ。お前の方が、力も早さも正確さも、まだまだ上だ」
 ランは涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、オーギュストを縋るように見上げる。
「本当ですか?」
「ああ、たぶん」
「たぶん? うぎゃぁあああ」
 また大粒の涙をぼたぼたと零して、声を張り上げて泣く。
「大丈夫、大丈夫だから、お前には天賦の才があるから」
「ぐしゅ、ぐしゅん。だったら今から稽古して下さい」
「今? 今は忙しい」
 オーギュストは突き放すように言って、また本棚に向き直った。と、ランはまるでタックルするように脚にしがみ付く。
「わっ、バカ、危ない」
「本当は才能ないんだ〜ぁ。うぎゃぁあああ」
 バランスを崩したオーギュストは本棚に頭をぶつけてしまい、どたどたと本が落ちてくる。さらに本棚が倒れてしまい、将棋倒しのように書庫中の棚が次々に倒れていく。
「分かった。分かったから鎮まれ」
 眉を顰めて宥めると、足元に目当ての本を見つけた。思わず眉が晴れていく。
「一から鍛え直してください。何でもしますぅ」
 オーギュストは『カーン一族の野望』という本を拾い上げると、パラパラとページをめくる。
「お前の父親の名は?」
「ライル・ベルですぅ」
「北陵流の剣士?」
「はい」
 オーギュストは満足そうに文字を指で叩いた。それからまたページをめくる。
「母親は?」
「エリザベートですぅ」
 また指で叩いた。
「間違いない!」
「それが何か?」
「お前には今のところ関係ない。それよりここ片付けておけ」
 オーギュストが本を小脇に挟んで歩き出そうとするが、ランが脚を掴んで離さない。
「見捨てないで下さいぃ……。何でもしますぅ。障子貼りでも、雑巾がけでも……」
「だから本を片付けろ――は、離せ!」
「そんなんじゃなくて……うわぁ〜ん」
 振り解こうとするが、濡れ落葉の如く剥がれない。そして、鼻から盛大に垂れている滴がスラックスの染みになっている。
「なんでもしますぅうぅうう」
「鼻、鼻を拭け!!」


【6月初旬】
――カナン半島沖。
 大型輸送船に、ムカデのように無数の脚を突き出した怪しげな大砲が載っている。ヨルムンガンド試作対ドラゴン決戦砲である。それを少し離れた駆逐艦から、オーギュスト等が見守っていた。
「あの輸送船に乗り切れんとはな。まさに大蛇だ」
 マックスがニヤニヤした顔で呟く。
「全長150メートル。初速1600m/毎秒。射程距離300km。計算上は、ドラゴンの皮を一撃で貫く」
 オーギュストはやや冷ややかな口調で答えた。その声から、成功する可能性を疑っている心情が窺えるだろう。
「どんな盛大な花火になることやら。船乗りとしては、興味をそそられるねぇ」
 まるで玩具を与えられた子供のように、マックスははしゃぐ。
「成功すれば、の話だ」
 その隣に、小柄なエルフがいた。プラチナの髪を雑に垂らし、間から、純白のビロードを思わせる美しさ肌と深碧の瞳が覗かせている。透明感と清楚感が、神秘的なまでに際立っている。エルフ王アルトゥーリンである。
「全く人間の考える事は、摩訶不思議だ」
「……」
 オーギュストは不機嫌そうに、視線を逆へ向ける。
 この三人に向かって、小次郎が敬礼して、
「準備完了。作業員、退避完了」
 と、緊張した声で告げた。
「始めろ」
 オーギュストは顎をしゃくって、小次郎に命じた。
「はっ」
 小次郎が威勢よく返答し、部下たちへ叫ぶ。
「ダイヤモンド弾装填」
「装填完了」
「尾栓開放、精霊エネルギー活性化開始」
「開放。圧力順調」
「発射!」
「発射します」
 部下がトリガーを引く。が、風の精霊が筒から次々に漏れて、吹き上がっていく。
「精霊が暴走しています」
「中止だ!」
 その瞬間、輸送船が大爆発した。
「あははは!」
 アルトゥーリンが高笑いする。
「人間は面白いな。虫けらのような短い人生で、よくもここまで遊べる。しかし、天然もここまで徹すると、笑いを通り越して哀れみを禁じ得ない」
 徐に立ち上がると、パチンとオーギュストの額に細長い紙を張った。
「精霊の請求書だ。踏み倒すなよ」
「……」
「人間の健闘を祈る」
 そう言い残して、艦橋を出ていく。
 オーギュストは額の請求書をそのままに、小次郎に迫った。
「耳が長いのがそんなに偉いのか?」
 血走った眼で、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「……」
 小次郎は声もなく、大きく首を横に振った。その顔に、血潮の欠片も感じる事はできない。
「陛下」
 その時、ファルコナーがそっと耳打ちをした。オーギュストは一瞬、はっとした表情をして、すぐに口元を引き締める。そして、ずらりと並ぶ参謀の列から、ヤンを目で指すと、「後片付けを手伝ってやれ」と言い残して、艦橋を後にする。その後、高速船に乗り換えると、セリアへ帰還した。
「実験失敗か……」
 駆逐艦の艦橋では、高速船の残した白い渦を見ながら、小次郎が深いため息を落とした。そのがくりと下がった肩を、ヤンが優しく叩いて励ます。
「ちょっと風の具合が悪かっただけですよ」
「……俺、ちょっとちびった……」
 小次郎が涙目で告白する。
「親衛隊なら一度はあります。親衛隊員たるもの一日にパンツは三枚用意しておけ、と訓示されたでしょう」
 ヤンは肩をがっちりと掴んで、抱き寄せたが、次の言葉を聴いて、思わず顔が引き攣った。
「大きい方……」
 重い沈黙が艦橋を支配する。


 セリアに帰還したオーギュストを待っていたいのは、すっきりした細身の軍服をまとった刀根留理子である。
「確かか?」
 オーギュストは椅子に腰を下ろすよりも早く、質す。その声に、俄かには信じられない、という驚きの色が含まれていた。
「はい。複数の情報員から同じ報告があり、次々に続報が入っています」
 きっぱりした留理子の言葉に、オーギュストは頬杖をして、溜め息を落とす。
「兄弟でねぇ……有り得そうな事だ」
 報告は、パルディアの一連の騒動についてである。

――パルディア王国。
 事は一つの噂で始まる。
 噂とは、金の鉱脈がパルディアの北部にある氷雪と火山のシカム島で、発見されたというものだった。
 その男は、アーカスのウル山からやって来たと言う。
 その男が、サリス古風の紳士で生真面目そうに見えたことも相俟って、パルディア中で金鉱開発の資金を掻き集める。出資者の中には、パルディア王ヴィレム3世とローテヴェイクの兄弟も含まれていた。
 だが、ノードランドから出港するとその男は、そのまま姿を消してしまった。勿論、資金を持って……。余談だが、この辺は後に『パルディア狂騒劇』という喜劇になる。
 今更詐欺に会ったとは威信にかけて言えないヴィレム3世は、ガノムの傭兵団リーダー、アクーニンを密かに雇って、金山探索の真似事をさせる。だがこれが拙かった。本当に金が出たのである。それも当時最大といわれていたウル金山の10倍の埋蔵量があるという。
 アクーニンが金の独占を図る。
 ヴィレム3世が怒る。
 そして、ローテヴェイクが訝しがった。
「初めから、兄は自分をのけ者にして金を独占するつもりだったのではないか……?」
 アクーニンは、ガノムから三千の兵を呼び寄せる。
 ヴィレム3世も、五千の正規兵をノードランドへと出陣させる。
 それを見ていたローテヴェイクは、自分を撃つ為に傭兵を雇ったかと、益々疑心暗鬼に陥る。そして私兵五百を率いてノードランドへ向かう。
 こうしてノードランドは、三つ巴の緊張状態に陥る。
 だが、百戦錬磨のアクーニンは、修羅場での生き残る術に長けていた。
 アクーニンはローテヴェイクに言い寄る。
「王は金山をサリスのディーンに差し出して、自分だけの栄達を考えていますよ」
「やはりそうか、パルディアを属国にするつもりか」
 腰抜けが、と罵る。
 また、ヴィレム3世に囁く。
「ローテヴェイクが、すべて仕組んだ事。あの者は簒奪を考えていますぞ」
「やはりそうか、前々から怪しんでいたのだ」
 と、ヴィレム3世は膝を叩く。
 そして、直線的な性格のローテヴェイクは、単身ヴィレム3世の陣を訪れる。
「売国奴!」
「不忠義者!」
「ふふふ」
 罵り合う兄弟。ほくそえむアクーニン。
 そして、兄弟揃って始末しようとするアクーニンは二人を奇襲する。
 ヴィレム3世の陣は大混乱となった。これも兄の仕業だと思ったローテヴェイクは、その場で兄を斬り殺す。そして、全身を兄の返り血で真っ赤に染めて、鬼神の如く舞い、アクーニン一味へ逆襲した。
 これが、パルディア動乱の顛末である。噂と嘘が人々を躍らせた。だが、それらは彼らの願望であり恐怖でもあったのだろう。人間の心の奥底に眠る暗部が垣間見える。
 喜劇で始まった物語は悲劇となり、惨劇へと続いていく。
 ローテヴェイクは叫ぶ。
「軟弱者に王冠は似合わぬ。パルディアの地を治めるものは、剣によってのみ語る」
 もともと武断的な土地柄である。能吏型のヴィレム3世よりも剛毅なローテヴェイクを人々は好んだ。そして、オーギュストに対抗する力を期待した。
 ローテヴェイクは自らの英雄の器を誇示するかのように、北辺への出兵を宣言した。

――セリア。
 数日後、パルディアから生存者がセリアに到着した。マウリッツ・ド・ルクレール伯爵(第30章参照)である。
 パルディア王家の分家の当主であり、歴戦の名将でもある。若年時には、槍で勇名を馳せ、数々の武勲を挙げた。戦場での武勲こそ騎士の誉れと言い放ち、陣中では、誰よりも闘争心を燃え上がらせる事で知られていた。
 将軍となってからは、手柄に執着することなく、冷静な判断力を有するようになっている。
 ちなみに、顔は厳しく、目のあった子供は必ず泣き出すと言う武勇伝を持つ。
 オーギュストとヴァレリーは、そろって謁見した。
「父上はご無事か?」
「無念です……」
「うう……」
 そして、ヴィレム3世の死を確認すると、ヴァレリーは人目を憚らず顔を覆った。その指の隙間から、嗚咽の声と悲しみの滴が零れた。


 ヴァレリーは啼泣し続けた。
「父上、父上……あああ」
 父親への思いの丈を、しがみ付いたオーギュストの胸に解き放つ。
「……分かった」
 オーギュストは強く抱き締めてやる。押し寄せる激情に、オーギュストは溺れるような気がした。
「俺が必ず復讐してやる」
 否、溺れているのはヴァレリーの方だろう。今はただこの悲しみの泉から救い出してやりたい、と思うばかりである。
「あ、ありがとうございます……」
 擦れた声で言うと、涙で濡れた瞳を上げる。赤く閃光する瞳が迫っていたが、些かの恐怖も湧かない。ヴァレリーは静かに瞼を閉じる。
 ヴァレリーの微かに開かれた唇に、オーギュストの唇が強く押し当てられる。
 重なる唇に、ヴァレリーの涙が流れ込んでくる。呑み込めば、哀しい感情が心に染み、一体化するような気がする。
「あああ……」
 逆にヴァレリーの心には、唇から、優しい暖かさがじわりと滲んでいた。陽の光も届かぬ氷の地獄と化していた心が、ゆっくりと温められていく。
――もう、この人しかいない……。
 ヴァレリーはぼんやりと思う。
 王女として、誰にも弱音を見せることは許されなかった。だが、この世に頼るべき者を全て失い、この深い絶望の底で、もう一人で立ち続ける事はできないだろう。今、彼女の傍には、オーギュストしかいない……。この世で、信じるべきはオーギュストだけ……である。
「あ、アン」
 ヴァレリーは喘いだ。自らの意思で、心の枷を断ち切ったのだ。
 その時、オーギュストの愛撫で炎のように燃え上がっていた肉体から、怒涛の如く快楽の波が、心へと押し乗せてくる。
「ひっ、ああぁぁぁっっ!」
 その甘美の濁流に、あっさりと心が呑み込まれてしまう。忽ち、自分が何処にいて、何をしているのさえ、判別できなくなる。
――な、何? これは……???
 心が混沌とした。心へ侵入した見知らぬ情報が何者なのかさっぱり分からない。ただ恐ろしいほどの速さで、心の中を駆け巡り、圧倒的な力で、そこにあったものを押し退けている。
 不意に、胸の内で、新しい心情が膨張しているのを感じた。全くの新しい想いである。それは熱く疼き、無性に掻き毟りたくなるような焦燥感に似たものだった。そして、それと認識した瞬間から、もはや、それを拒む術はない。その圧倒的な衝動に衝き動かされて、ヴァレリーは未知の世界へと踏み出す。
 シーツを握り締め、身体を仰け反らせだ。そして、顎を突き上げて、目を剥く。
「あっ……がぁ……」
 悶絶する唇は言葉を紡げない。出るのは、獣の咆哮によく似たうめきばかりである。
――これがセックス……な、なんて……。
 今、余りの衝撃に愕然とする。呼吸は全力疾走の後のように乱れ、身体中の痙攣が治まらない。
――気が、気が遠くなる……。
 もう自分が何処にいて、何をしているのさえ、判別できなくなっていた。
「す、すごいッ……!」
 心にあれほど満ちていた絶望は、何時の間にか、快楽を貪る肉欲に塗り換わっている。瞳から溢れ出る涙は、いつしか、悲しみからではなく、悦びから流れ出ていた。
「はぁあああン!!」
 ヴァレリーは、淫靡な嗚咽を上げた。


【6月中旬、セリア】
 パルディアの政変が伝わり、統帥府は俄かに緊張度を増していた。が、セリア中が震撼するというような事はなく、北辺出兵予定のロックハートの周囲が忙しくなった程度であろう。
 そこへ新たな火種が持ち込まれる。
 風前の灯だったカイマルクから、アポロニア・フォン・カーンが、ティルローズに降伏した。
「祖国を失った我々は……」
 アポロニアは、ティルローズの前に跪くと、カイマルク公国滅亡からの苦難の日々を切々と語り始めた。
「度重なる苦難に多くの同朋が倒れ、絶望が心を蝕んでゆきました……」
「分かります」
 その物語の節々で、ティルローズは目を真赤にして、鼻をすすり続ける。
「……ようやく我々は母なる大地を取り戻したのです」
 アポロニアが語り終えると、ティルローズは滝のような涙を流して、玉座から駆け下りて、その手を取った。
「余がついているぞ」
「陛下……」
 固く握り合った手に、熱い涙が零れ落ちる。
 二人はまるで古い友人のように寝食をともにして、飽きることなく語り合う。

「来ないか……」
「来ませんね……」
 夕刻、オーギュストは『シャルル3世大聖堂』の食堂にいた。ここはローズマリーが住む場所であり、多くの孤児達の生活の場となっている。
 本来なら、この夕食に、ティルローズも参加する予定であったが、約束の時間を30分過ぎても、姿を現さない。この機会に、アポロニアの件を話し合うつもりであったオーギュストの落胆は大きい。
「仕方がありません。もう始めましょう」
 ローズマリーは、オーギュストの了承を得て、侍女たちに目配せする。
 豪華なシャンデリアの下、銀の食器に料理が運ばれてくる。
 席には、オーギュストとローズマリー、そしてユリア、エレナ、フェリシアの三娘がいて、親衛隊からナン・ディアンとアン・ツェーイが、さらに孤児院の代表の子も加わっていた。
 現在ユリア、エレナ、フェリシアの三姉妹は、ローズマリーのもとで、サリス式の宮廷作法を学んでいる。
 ユリアが澄ましてピーマンを皿の端に避けていると、ボンとローズマリーがテーブルを叩いた。それにユリアはカチャリと食器を鳴らして、首を竦める。
「いけませんよ。出された食べ物は、全て感謝して食べなくてはなりません。それが上に立つ者の心得です」
「はい。申し訳ありません」
 ユリアは大人しく頭を下げて謝罪した。
 上座でオーギュストは、威厳有りげに大きく頷いた。
――ユーちゃんが一つ大英雄への試練を乗り越えた……。
 苦い表情でピーマンを頬張るユリアを横目で見て、オーギュストの心が盛大に感涙している。
 と、皿から零れたニンジンをフェリシアが手で掴もうとして、ローズマリーの手が鞭のようにしなって、叩く。その瞬間、オーギュストは、まるで自分が叩かれたように、泣きそうな顔で手をさすった。
「作法は、食事をともにする人々への思いやりですよ。自分が不快に思うことをやってはいけません」
「はい……」
 フェリシアが謝る。
――ああ、フェリシアは俺を越えた!
 その素直さに、オーギュストの魂が蕩けた。
「それにしても、講談師は面白かった?」
 常の事ながら、いきなりローズマリーが話題を変えた。その屈託のない優しい笑顔をナンへ向けて、問う。これにスプーンを口に咥えたまま、ナンは石像と化した。
「あれ、評判なんでしょ。私も一度聞いてみたかったの」
 笑顔の中に、一欠けらの嫌味もない。ここにいる大人なら誰でも知っている事である。だからこそ、言われた側は、傷に塩を塗られた気分であろう。
 さらに、エレナやフェリシアが意味も分からずに、無邪気に「あたしも観たい」と手を元気一杯に上げた。同じ日に生まれた二人は、双子のように、よく似ている。ただフェリシアが左利きなので、まるで鏡写しのように見える。
――君たちが見たいと言うのなら、死ぬまで演じさせよう!
 見詰めるオーギュストの目尻が垂れて、目が縦に立つと思えるほど弛んでいる。
 その時、アンが隣のナンを厳しい目付きで睨むと意味深に咳払いする。それに怯えた反応をみせ、ナンはオーギュストへ深く頭を下げた。
「陛下、申し訳ありません。ただ夜勤で疲れている部下を慰撫したかったのです……」
「弁明?」
 アンが、突発的な怒りに、目を剥き、声をひっくり返す。その時、オーギュストが笑った。
「ナルセスも剛毅な男だった。そして、何よりも部下との交流を大事にした」
「しかし……」
 アンは不満そうに頬を膨らませる。しかし、オーギュストから完全に無視された。
「ナンよ。お前はナルセスの息子として、自信を持って行動せよ」
「はい」
 ようやくナンの顔に明るさが戻った。
 オーギュストやリューフがナンに対して甘くなるのは、若くして死んだナルセスへの哀悼の気持ちが無意識に働く所為だろう。
「さあ、次はローストチキンですよ。陛下、切り分けて下さい」
 そこへ、ローズマリーの明るい声がこだました。


 この夜、クリスティーはアレックス将軍との夕食会を公表していたが、その部屋を密かに抜け出すと、別のホテルに赴いていた。
「お待たせした。路地裏に人がいたもので」
 部屋は薄暗い。窓は厚いカーテンで閉められて、照明は壁際にアンティークのランプが立っているだけである。
「お気になさらず」
 鈴のように澄んだ声が帰ってくる。相手はアポロニアである。
「早速だけど――」
 二人は赤いソファーに座って向き合う。横からの照明のせいで、二人の顔に濃い影が差していた。
「無駄よ」
「はい?」
 鋭い眼光をして、アポロニアはまるで挑発するように伺う。対して、クリスティーは優雅に微笑んでいた。
「カイマルクは貴女のものにはならないわ」
「そうかしら」
「パルディア迎撃には、リューフ、ルグランジェ、カザルスの三将軍に勅命が下る。ロックハート将軍は、そのまま第二軍としてカイマルクへ進軍する。もう決定事項よ」
「随分派手な布陣ですね。はたしてそれだけの余裕が、このセリアにあるかしら?」
 アポロニアも余裕の笑みを浮かべて、冷めた紅茶をすすった。
「トラブゾンは、故ナルセス・ディアンの出身地、彼の地を守るのが、その息子。オーギュストとリューフの両名に、これ以上の戦う動機はないでしょう。また、この両名が戦うのなら、ルグランジェもカザルスも喜んで死地へ赴くでしょう。所詮、男とは、ロマン無しでは生きていけない憐れな存在」
 クリスティーは、ゆっくりと脚を組みなおす。
「男性論は別の機会にして、カイマルクとトラブゾンでは事情が違うでしょう」
 アポロニアも美脚を競うように、脚を組みなおした。
「貴女は、ロックハートがカイマルク支配に難儀すると思っているのでしょうけど、そうとも限らない」
「ほお?」
 瞬間、アポロニアの秀麗な眉が跳ねる。
「ロックハートの養女リンは、カーン公一族の末裔よ。貴女よりも、よっぽど折り目正しいわ」
「……」
 アポロニアは暫し口を噤んだが、突然笑い飛ばした。
「お得意の捏造ですか?」
「どうかしら?」
 クリスティーは不適に笑う。
「私は下手なブラフはしない」
「これまでのようですね」
 アポロニアは立ち上がり、ドアへ向かって歩き出した。
「アーカスで、10億Czでどう?」
 クリスティーは振り返らず、その背へ向かって取引をもちかけた。
「私に家臣になれと? 冗談でしょ」
 殺気の篭もった視線を投げ掛けて、アポロニアはドアの向かうに消えた。


 裏弥生通りの名店『餃子のテムジン』の暖簾を、小次郎とヤンがくぐっていた。
「オヤジ、餃子」
 慣れた口調で注文すると、奥の席に腰掛ける。
「それでは第一回『正直、あの大蛇をどうするよ?』会議を始めます」
 餃子を一つ食べ、ビールをぐっと流し込んでから、小次郎が喋りだす。
「若干、死兆星が見え始めた現状を打破すべく、率直な意見を述べてもらいたい」
 挨拶を終えて着席すると、ヤンはメニューを見ながら、追加注文していた。
「おい」
 促されて、ようやく顔を上げる。
「真剣にやれよ、参謀本部。只酒を飲ませるつもりはないぞ」
「分かっている。要するに、問題は三つ」
 ヤンは、然も簡単に言う。
「おお、いいぞ、参謀本部」
 小次郎は、ビール一杯で赤くなった顔を近づけて、アルコールのたっぷり含まれた息を吹きかけた。
「まずは、タイミングだ。側部薬室だけでも30個ある。その全てを理想通りに発動させるのは至難の業だ。精密な計算が必要だな。人工知能がいる」
「……算盤じゃダメなの?」
「次に、照準だ。ドラゴンに見えない物が、人間に見える筈がない」
「……忍者がいるなぁ」
「そして、せめて精霊王ぐらい使わないと」
「……ハイエルフを口説くかぁ」
 この夜の会議は結局何一つまとまらず終わる。


【6月下旬】
「固いなぁ〜。婆か?」
「しゅ、しゅみましゃせん……うぐぅ」
 ランは気をつけ姿勢でうつ伏せに寝ている。そのランを跨ぐと、オーギュストは、ランの両腕を持ち上げて、ゆっくりと前へ押す。
「これでも剣士の端くれか。日頃の柔軟を怠っている証拠だ」
「今度は心を入れ替えますぅ……」
「お前はいつも口ばっかりだ」
 ランは脚を伸ばして座り、両腕を上に上げている。その背後では、オーギュストが片膝を立てて肩甲骨に当て、さらにランの腕を持ち上げている。
「ひぁあああ!」
 オーギュストがゆっくりと両腕を後方に引くと、ランは奇妙な声をもらした。
「次は腰だ」
 それから、ランは仰向きに寝て、両膝を立てる。オーギュストは、正面からランの膝をゆっくりと胸に押し付けるように押していく。
「こ、これはストレッチなんですか?」
 身体を折りたたまれて、オーギュストが上から体重をかけてくる。ちょっと卑猥なイメージをした。
「あーん?」
「いえ、何でもありません……」
「よし、終わりだ。借り物だから、ちゃんと片付けとけよ」
「はい」
 オーギュストは、欄をひとり残して、さっさとシャワールームへ入っていく。
「ふぅ〜、緊張したぁ……」
 ランは、しばらくマットの上で故郷を整えていた。
 最近、オーギュストの早朝トレーニングに加わっている。そして、身体の硬さを指摘されて、仕上げに、ストレッチを施されるようになった。
「あっ!」
「お?」
 トレーニング器具を片付け終えて、シャワールームへ向かうと、調度オーギュストが出て来るところだった。
 オーギュストは赤いトランクスの一枚で、頭に被ったバスタオルを乱雑に動かしている。
「ちょ、ちょ、ちょっと、待って下さいよ。セクハラですよ」
 ランは顔を真っ赤にした。圧倒的パワーを秘める引き締まった肉体が、そこにある。触れると意外に柔らかいことを思い出していた。
「何を見ている?」
「べ、べ、べ、別に……」
 動揺するランを見て、オーギュストは眉を顰める。
「お前、男の裸にも興味があるのか? バイか?」
「ハァ???」
 ランは意味が分からず、ただ呆然とした。

 食堂のテーブルに着く。
 ここはスピノザ館の食堂で、伝統的なセレーネ貴族の様式を正確に踏襲した造りになっている。
 席に着くと、侍従が特製ジュースを運んでくる。カップを受け取り、代わりにバスタオルを手渡した。
「おはよう」
 向かいに坐るミカエラが、パンを千切りながら挨拶する。
「ああ」
 オーギュストは特製ジュースを飲みながら、軽く手を上げて返す。
「それ美味しいの?」
「筋肉を作るのに欠かせない」
 口をぬぐって答える。
「これ、ようやく届いたわ」
 ミカエラはフリオからの報告者を差し出す。
 オーギュストは舌なめずりしながら、手に取ると、さらさらとページを捲っていく。
「なかなかでしょう?」
「ああ」
 フリオは、トンマーゾを討伐すべく、北エスピノザ州のサッザ城へ進軍した。途中、セレーネ半島中の貴族達が、次々に傘下に加わり、瞬く間に六万の大軍となった。
 トンマーゾには、多くても八千ほどの戦力しかなく、圧倒的な戦力差に城に立て篭もるしかなかった。
 フリオは、サッザ城を包囲した。トンマーゾ軍の士気は高かったが、援軍の当てもなく、開城は時間の問題と思われた。
「……」
 オーギュストは、各部隊の配置図を見て、次第に表情を曇らせる。
「どうかした?」
「いや、相手はトンマーゾだ。問題なかろう……」
 心配そうに訊ねるミカエラに、オーギュストは優しく微笑んだ。

 午前中、オーギュストはミカエラとともに宰相府に赴き、政務をこなした。その後、昼食のために、サイア館へ向かう。昼食の後には、カレン主催の読書会があり、オーギュストが古典の解釈を行う予定になっていた。
 ミカエラは、ベアトリックスを昼食に呼び出し、フリオからの報告書を見せ、さらにオーギュストの顔が曇った事を説明した。
「どう思って?」
 微かに震える声が、抑え難い不安を感じさせた。
「それはたぶん……」
 ベアトリックスも、険しい表情になる。
「陛下の戦法によく似ているからよ……」
「それは良いことでは?」
 ミカエラは、怪訝そうに眉を寄せる。
「ええ、名将に学ぶ事は間違っていないわ。でもね、陛下の戦い方は尋常ではないのよ」
「……それはそうだけど」
 納得していないのに、反論の言葉を紡げない。ミカエラは大きくなる不安に、アイスブルーの瞳を泳がせた。
「ここ」
 ベアトリックスが、地図を広げて指差す。思わずミカエラは固唾を呑む。
「本陣が、敵の目に晒されている」
「つまり?」
「夜襲を受ける危険性が高い……」
「そんなぁ……」
 ミカエラは息を呑み、震える瞳でベアトリックスを見詰める。
「陛下の場合は、その夜襲を逆利用して、一気に決戦に持っていくのでしょうけど、フリオにその力量があるかどうか……」
 できるだけフリオの名誉を傷つけないように、言葉を選んだつもりだったが、ミカエラの反応を予想以上に激しい。
「……」
 ミカエラは声もなく、ただ狼狽して立ち尽くしている。そして、左右へ仕切りに向き直っては、一歩踏み出そうとして躊躇する行為を繰り返した。
「でも、相手はトンマーゾよ。夜襲をやる器量はないわ。安心しなさい」
「ええ、そうね。そうかもしれないわね……」
 心ここにあらず、とばかりに空虚に頷く。


続く


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