エリーシア戦記
...Record Of Ariesia War...
第54章 四面楚歌
【神聖紀1231年9月サイア】
「この戦いのあと、強大な一独裁者が大勢力の諸国の上に乗った、危ういバランスの統一政権が誕生するだろう……」
軽く咳き込んで言葉を切る。口に当てた布には、赤い染みがあった。
「……」
心配そうな顔を向ける愛妾のジナイーダを手で制すると、カフカは起こしていた上体を、苦しげにベッドに下ろす。血を少し吐いたことで、体から毒が抜けて苦痛が和らいだ、と根拠なく言い張った。
「続ける」
「はい」
ジナイーダは、鉛のように重く感じるペンを握り直す。
「200億Czに及ぶ蔵入地は、各将軍領内にあり、その管理運営まで任されている。これでは、一独裁者が政治を投げ出せば、忽ち統一政権は弱体化する。世界の安寧は遠い……」
朝、久しぶりに体調がよかった。胸を絞め付けるような痛みもなく、軽く朝食を食べる事もできた。
カフカは、カレンへの手紙を、ジナイーダに口述筆記させることにした。しかし、言葉を紡ぐごとに、忌々しい熱が襲ってくる。磨いてきた脳の組織が次々に焼かれて、蓄積された知識が虚空の彼方へ消えていく。少しでも気を緩めれば、暗い闇に魂が吸い込まれていくような気がした。
「蔵入地、鉱山、港湾、主要都市を直轄地として、統一政権から能吏を派遣する。ただし、徒に官吏の数を増やすのではなく、郡や県を合併させる必要がある。また、軍備を縮小し、税率を下げ、人身売買を規制して奴隷を解放する。疲弊した民を救済する……」
命の欠片が残っているうちに、伝えねばならないことがあった。この時代を作った大人の一人として、最後の責任を果たさなければならなかった。
『武を極めて武を止む』
これができるのは、オーギュストの寵愛を受けるカレンと、文治主義を掲げるサイアの有能な官僚集団だけだと確信する。所詮アーカスは戦う事しか知らず、セレーネは己のことばかり、そして、サリスは過去に縛られている。
「人は尊い。人を愛するのです……カレン様……」
「え? もう一度仰ってください」
カフカの声は小さく、ジナイーダは聞き取る事ができなかった。
【カッシー】
あの決戦から一ヶ月以上が経過したが、ついにサイアからもニブルヘルムからも援軍は到着しなかった。
サイア政府は、カフカの死によって、「主流中道派」「急進派」「穏健派」などが乱立、烈しく対立して、出兵できる状態ではなくなった。
一方のニブルヘルムも、家臣団の深刻な分裂状態にあった。
ニブルヘルム盆地には、スピノザ家の移封前から、オーギュスト麾下の戦士として武勇を轟かせた『ヴェガの八腕』(第27章参照など)が領地を与えられていた。
彼らはオーギュストの直参として数々の激戦を経験してきた。その戦歴から、オーギュストの子飼いと自称している。
故に、スピノザ家から家臣扱いされることを頑として拒んだ。実績のないフリオを軽んじ、賦役への参加を拒否し、検地に協力せず、税を一切納めない。
このままではスピノザ家の財政が破綻してしまう。スピノザ家の重臣と『ヴェガの八腕』は事あるごとにいがみ合い、激しく衝突した。
当主であるフリオは板挟みとなり、出陣どころか全く身動き一つできなくなった。
このオーギュストに援軍のない状況で、逆にセレーネ半島では、ルブラン軍が親アルティガルド勢力に敗北し、さらに、皇帝ヴィルヘルム1世自身が、果断にも、近衛軍を伴って国境に迫っていた。
「……」
報告を受けて、諸将は緊張した。そして、口をそろえて、一旦セリアに戻る事を進言した。だが、オーギュストはまるで老婆のように背を丸めて、椅子に浅く坐ると首を横に振る。
「お祖母ちゃんが言っていた。セリアには性悪女が住んでいると……」
結局、これらに講じてルグランジェとカザルスの戦力を割いて向かわせ、残り全軍をタラ山に登らせた。この決断により、戦力不足が決定的となり、攻勢に転じることができなくなった。
一方、アルティガルド軍は、やや後退して、深く堀を掘り、高い柵を築いて固く守った。
しかし、兵糧は底をつき、一日一食の状況が続く。兵士の上層部に対する信頼は暴落した。陣内の秩序は乱れて、公然と上官を批判する兵士がそこらに溢れた。まさに組織の末期症状であろう。もう大軍を擁しながらも打って出る余力はなかった。
このように、両軍とも勝利への見込むみを失っていた。
9月中旬、タラ山の本陣に、ミカエラが到着した。しかし、百騎ほどしか伴っておらず、しかも本領であるニブルヘルムの兵は一人も含まれず、エリース湖沿岸の飛地からかき集めた守備兵ばかりだった。
「ご即位おめでとうございます」
軍服姿のミカエラは片膝をついて、殊勝に祝辞を述べた。しかし、場の空気は冷たい。ニブルヘルム勢の遅参によって勝機を見失っただけに、諸将の視線には殺気すら滲んでいる。
「どうして出陣しないのです」
右軍師マルコス・サンス・デ・ザウリ威烈将軍が、厳しい声で質す。
「サイアが動かないのに、我ら単独では動けません」
一歩も怯まず、ミカエラが諸将を睨み返して答えた。すっと背筋を伸ばして、ブルーグリーンの瞳を鮮やかに輝かせている。まさに彼女流の戦闘態勢と言えよう。
ミカエラの主張は、サイア南部に不穏な動きがあり、どさくさに領土侵犯を狙っている、と言うものだった。ニブルヘルムは元々サイア領であり、事実、常に両政府の間には根深い対立が横たわっているが、所詮詭弁に過ぎない。純軍事的に、精鋭であるヴェガの八腕を戦場に届ける事ができなかったことは、スピノザ家の失態以外の何ものでもないのだから。
「何せ、あのカフカですから」
眉が挑戦的にしなる。
「死んだよ……」
オーギュストは静かにカフカの死を告げる。
ミカエラは一週唖然としたが、すぐに切り替えて、哀悼の表情で小さく祈りを捧げた。
「そう……彼死んだの」
しかし、その影で、ちらりと口の端を上げた。
「でしたら、これ以上の戦闘は無意味でしょう」
ミカエラは毅然と顔を上げて、持論を披瀝する。
「陛下とサイアの同盟関係は崩れました。今は逸早く敵を国外に追い出して、サイアの再建に尽力すべきです。及ばずながら、この私も尽力致しましょう」
オーギュストに恭しく頭を下げる。一挙手一投足が、芝居がかっていた。だが、並みの女優以上の美貌である。全てが絵になって、思わず見惚れてしまいそうになる。
その時、具体的にどうする、という声が挙がったので、ミカエラは鋭く振り返って発言を続ける。
「停戦交渉を行うべきです。古来より『帰国する敵軍を防ぎ止めてはならない』とある。国へ帰ろうとする兵は必死となり、思いがけぬ力を発揮するもの。これ以上退路を塞ぐ必要はありません」
発言が終わると、オーギュストとザウリが視線を交えた。
「どうか?」
「手が続くかどうか……」
短く打ち合わせる。勿論、停戦交渉するかどうかではない。オーギュストは、この交渉中に国境まで移動して、近衛軍に奇襲をかけられないかと問いかけた。そして、ザウリは、慎重に考える素振りを見せる。一つ間違えば、味方の陣形はバラバラとなり、敵の強烈な反撃を招く結果になりかねないからだ。
「そうだな」
オーギュストは失望したように相打ちをすると、一晩考えよ、と告げて、席を立った。
オーギュストはベッドの縁に腰掛けて、上体を支えるように両手を後ろへついた。窓を叩く雨音に誘われて、視線を窓に向ける。せっかくの満月も雨雲に隠れていた。視線を戻すと、脚の間に、月よりも鮮やかな金色の髪がさらさらと波打っていた。
あの知性の泉とも評されるブルーグリーンをねっとりと潤ませて、あん、あんと悩ましげに鼻を鳴らしながら顔を揺すっている。
「ミカは……」
問いかけても、ひたすらフェラチオに没頭していて反応しない。つい数時間前、この口から発せられた弁舌で、歴戦の勇者達を圧倒していた。その薄く紅い唇から、自分の男根が出たり入ったりしている光景に感動を抱かない男はいないだろう。オーギュストは思わずうっとりと眺めて、そっと頭を撫でてやる。
「む、むぁんに?」
ミカエラは上目遣いをした。
ミカエラらしい、と思った。決断力も行動力もあるから事業が無闇に大きくなって、最後には大失敗してしまう。そうなると、日頃は性欲の欠片も見せないのに、こうして肉欲に進んで溺れてしまう。どこまでも可愛い女であろう。
「ミカは……上手いね」
「ふふ」
褒められると素直過ぎる笑顔を見せる。そして、俄然やる気になったらしく、垂れ落ちる黄金の髪を耳の後ろへ振り払い、口での奉仕に熱を帯びさせていく。根が負けず嫌いの凝り性だから、技のバリエーションは日々増えているようだった。
尿道口は舌先を震わせて刺激し、カリ首の裏側には丹念に舌先を這わせ回し、時にはフルートのように横から咥えたり、裏側には根元から先端までをペロリペロリと舐めさすったりしながら、少しずつずれ上がっていく。
「ここも好きでしょ、ギュスくぅんは」
目尻を淫らに赤く染めて囁くと、さっと下にもぐり込む。そして、尖らせた舌先で睾丸から会陰部を攻め始める。
「うん……」
オーギュストの性感が、揺さ振られていく。
ミカエラの舌は、小気味に動いて、アヌスの周辺を唾液で塗し終えると、やがて穴の中へとこじ入っていく。
「うっへぇ……」
思わず声が裏返った。
きわどい箇所をたっぷりと舐めしゃぶり、オーギュストの反応に満足したのだろう、ミカエラは再び男根を咥えた。
チュプル、チュプ、チュププ……。
頬を窄めて、強く吸う。
オーギュストに快感がこみ上げてくる。美しい金髪の頭を掴むと、強引な手付きで頭を上下に動かして、好き放題に唇で男根をしごく。
「ウ、うがぁンン、ウムンン」
頭をぐらぐらと揺らされ、喉の奥を乱暴に犯されて、ミカエラは顔を真赤にした。そして、狂おしくすすり泣く。
「よし、飲め!」
宣言すると、オーギュストは派手にぶちまけた。
「んく…んく……んっ」
ミカエラはヨガリ声をもらしながら、口で精を受け止めた。
べっとりとした白濁液が唇の端から溢れ出る。唇をぬらした分を舐めすすり、さらに顎へ流れ落ちた滴を指先で拭い取る。
その指先を、口唇奉仕で興奮したのだろう、ぬらぬらと濡れ光った秘唇へ運んだ。蜜壷は枯れる事を知らない水瓶の如く、密汁を噴出して、会陰部や肛門をべちゃべちゃの水浸しにしている。
「あん、あ、あんん」
精液と愛液を密壷の中で混ぜ合わせると、ミカエラは忽ち恍惚と喘ぎ始める。
オーギュストは、勝手に始まったミカエラの自慰を眺めた。
「ミカは何も心配する必要はない」
「え?」
「マルセル・ラマディエを派遣して、ヴェガの八腕をまとめさせよう」
「フリオは?」
「この夏セリアにずっと居た事にすればいい。俺のスタッフとして……」
ふいにオーギュストの頭の上にライトが点いた。だが、ミカエラはその変化に気づいていない。
「そうね。重臣の首を二つ三つ斬れば、フリオに害は及ばないわ」
ミカエラは破顔すると、オーギュストの首へ飛びついた。そして、オーギュストの腰の上に跨り、手馴れた手付きで、秘唇の中へ男根を誘い込む。
「うん、あああん」
柔肉を抉られる感触に、安堵のような呻きを上げる。
「好きよ、ギュス。愛しているわ」
甘美な接合感に骨の髄まで痺れた声で、囁き、しっかりと首にしがみ付いた。
「はぁん、んっ、んぁっ、はぁん」
それから、更なる快楽を求めて、細腰を振り乱す。豊かな張りを持つ尻肉がブルンブルンと弾んで、腰がくねくねとうねり狂う。
「いいの、凄くいいのッ!」
気品に満ちた美貌を淫靡に輝かせて、額に汗を浮かべ、眉間に深い縦皺を一本刻み、赤く火照った小鼻を膨らませて、一匹の発情したメスとなって喘ぎまくる。
「む、胸も吸ってぇ」
悩ましい鼻声で告げると、オーギュストの頭を胸に抱く。早速オーギュストが吸い付く。
「はぁん、ンンんっ、んぁっ、んんっ!!」
益々盛んに蜂腰を蠢かせて、淫靡に円を描いていく。
オーギュストも、官能の高まりのままに、激しく腰を打ち上げる。
「あっ、ひぃーーッ!」
より深く抉られて、ミカエラはさらに激しく喘ぎ声を張り上げた。その瞬間、膣穴がきつく締まる。
その締まりを堪能するように、オーギュストは槍の如く強く突き上げまくる。
「オマンコがこわれちゃう……イイッ!!」
直ちに更なる高みに昇り詰めていく。背中が力なく崩れて、オーギュストの腕に支えられながら白い裸体を仰け反らせた。そして、色情に惚けた顔を天へ向けて、絶叫した。
「はぁ、はぁ…」
長い絶頂の発作のあと、余韻に満たされた顔を、今度はオーギュストの肩に置いて、荒い息を吐いている。
「はっ! こうしちゃいられないわ」
いきなり、生気のこもった声を発すると、勢いよく身を起こした。
「急にどうした?」
オーギュストは口を尖らせて、つまらなそうに問う。
「セリアに行かなくちゃ」
ミカエラは、しれっとした顔で言い放つ。もうすっかりいつもの自信たっぷりの怜悧な顔に戻っている。
「えーーー」
数日はこうしていられると皮算用していただけに、オーギュストのショックも大きい。
「何でさ?」
もはや駄々っ子のような言い方である。
「何でって、ギュスママが帰りに寄るって……聞いてないの?」
折角の美しい裸体を、固い服の中に仕舞い込みながら、さばさばと答える。
「うむ? それ……誰?」
オーギュストは暫し首を捻った。
「誰って、からかっている?」
ミカエラが本気で眉を顰めて睨む。そして、あなたを産んだ人よ、と怒鳴りつけた。
「おおお! そう言えば居たな、そんな人。十年ぶりぐらいに考えたよ」
オーギュストは感慨深く呟いた。どうやらミカエラはオーギュストの母親と頻繁に手紙のやり取りをしているらしい。
「はぁ……呆れた。あなたたち兄弟は、本当に変わっているわね」
ミカエラはこの一つのため息に、この恩知らずの息子に対する軽蔑の気持ちをたっぷりと含ませた。そして、男の子ではなく女の子を産んだ事を心から喜んだ。
「兄弟?」
オーギュストは別の言葉に食いつく。
「お兄さんが、十年ぶりに喋ったそうよ」
「それは、ありえないよ」
オーギュストは笑いながら、大袈裟に手を振る。
「カリハバールが攻め込んできても『……』だったんだから……その兄さんが喋るなんて……」
「最近のギュスは弛んでいるって」
「何?」
「お兄様はとても怒っているそうよ。ディーンの男として情けないって」
「……」
その時、偶然雨雲の中を雷が走った。オーギュストの愕然とした顔が、刹那濃い陰影に染まった。
【セリア】
「セリアか……。何もかも懐かし……きゃぁ」
タラップを降りる女性が、風で吹き飛ばされそうになる帽子を抑えて、情感たっぷりに呟いた。
グリーズ離宮のテラスで、ティルローズは、優雅に紅茶を飲みながら読書に耽っていた。そこへメルローズは慌てて入ってくる。
「どうしたの、挨拶もなしに」
ティルローズはティーカップを置きながら、宮廷作法を無視した妹を諌めた。
「どうしたの、じゃないわ。こんな所で何をしていらっしゃるの?」
余程急いで来たのだろう、メルローズは息を切らしている。
「何って、『チーム・バチスタの栄光』を読んでいたのよ。心臓を取り出す時に参考になればと思って」
「そんな古典を読んでいる場合じゃないでしょ。今何時だと思っているの」
メルローズは血走った眼で迫りつつ、鋭く壁の時計を指差した。
「ああ、そうだったわね。でも、出迎えとかはいらないって、使者が言っていたわよ」
「そんな言葉を鵜呑みする嫁がどの世界に居ますか!」
ほら、とティルローズの腕を引っ張り、起き上がったところで、よいしょ、と背中に回って押し出した。
「はいはい、分かったわよ。行けばいいんでしょ……もお」
埠頭に到着すると、すでに複数のテントが張られていた。
「間に合ったようね……」
メルローズが、ふう、と安堵の息を吐いた。
ティルローズは、切羽詰った様子の妹に、大袈裟ね、と目を細めた。
そこへ二人を見つけたカレンが近寄ってくる。
「ごきげんよう」
屈託のない笑顔で挨拶して合う三人。
その衣装を見て、ティルローズは唖然とした。いつもの王女らしい豪華なドレスではなく、猫の刺繍の施された、白いワンピースを着ている。
「ミカエラさんは、結局間に合ったみたい」
カレンがテントの中のミカエラを顎でしゃくって、忌々しそうに言う。そして、扇で顔を隠して、声を顰めた。
「ほんとミカエラさんには、呆れますわ」
「はぁ」
ティルローズは気のない返事をした。カレンが何を怒っているのか、よく理解できないのだ。それでもカレンは止まらず、火事場泥棒という言葉を用いて、ミカエラを詰る。
「でも折角、ニブルヘルムへ招待したのに、あの混乱状態じゃ、クリスさんに出し抜かれても仕方がないですわ」
ティルローズがセリア奪還に心血を注いでいる間に、ライバル達はオーギュストの母親の旅行先を巡って争っていたらしい。呑気な連中だと内心苦笑した。
「それにしも、クリスさんの付届けには、遺憾を禁じ得ませんわ。私の側近まで届いていたのよ。今度のアーカス旅行だって、そうとう奮発したみたいですしね」
「はぁ」
どうやら、予定されていたニブルヘルム旅行を、クリスがアーカスへ変更したらしい、という事が読み取れた。まるで別世界の話題のようで、ティルローズは今一ピンとこない。
その時、メルローズが袖を引っ張った。船から降りる人影が見える。同時に、待機していた女性たちが全員集まり出した。
「え?」
そこで、全員が猫の刺繍のあるワンピースを着ていることに気付いて、ティルローズは怪訝な表情をした。この面々が仲良くお揃いの服を着るとは到底思えない。
「お姉さま、その格好でいいの?」
耳元でメルローズが囁く。妹を見ると、いつの間にか、ジャケットを脱いで、猫のワンピース姿になっている。
――め、メルローズ、お前もかッ!
「ギュスママから送られてきたでしょ?」
責めるように眉を顰めている。言われてみれば、遥か昔、いろいろと届いていたような記憶はあるが、オーギュストへの荷物だろうと思って全て放置していた。そして、そのうち自然に音沙汰はなくなった……。
――こ、これはもしや……私はたいへん失礼な事をしていたのではないだろうか……。
ひやりと、背筋に氷を当てられたような寒気がした。
正直言って、頭の中には、打倒カリハバールとサリス再建しかなく、オーギュストの家族のことなど考えている余裕などなかった。否、片隅では、木の又から生まれた、と侮る気持ちがあったのかもしれない。
その時、
チャチャッ、チャチャッ、チャチャッ、チャチャッ、パパーパーパパパ。
突然楽団が、瞬間物質転送装置の起動時に流れるBGMを演奏し始めた。
「来たみたいだわ」
「いよいよお出ましね……」
女性達が、緊張した声で話す。その中で、一人ティルローズだけが首を捻った。
「どうしてこの曲なの?」
何故か皆と一緒に固唾を呑んでいる妹に聞く。そんなことも知らないの、とメルローズはイラついた声を出し、ややうんざりという感情を横顔に過ぎらせる。
「ギュスママは瞬間物質転送装置の発掘作業チームのサブリーダーをしていた時に、ギュスパパと知り合ったの」
「ほぉ」
感心した声を上げる。ティルローズも現役の乙女である。他人のラブロマンスは興味深い。無意識に気持ちが乗ってくる。
「それで、ギュスパパも同僚だったの?」
「はぁ……あ」
メルローズは地の底に届きそうな深いため息を落とす。
「ギュスパパはスパイでしょ」
「嘘!」
思わず声が大きくなり、ティルローズは慌てて口を押さえた。
「見えた!」
誰かが叫ぶ。
ティルーズは「スパイ」という生々しい言葉に、激しく動揺していた。そんな軽々しく使っていい職業名ではない。そして、これから会う女性も只者ではないような気がして、緊迫した空気が心にそっと忍び込んでくる。
「あの人が……」
これから待ち受ける運命を想い、身を固くして、思わず生唾を飲み込んだ。
その女性は、つばの広い白い帽子に、ワンピース、そして、腰にはピンクの大きなリボンがあった。一見すれば、年下にも見えないこともない。しかし、その後ろに嫂のケイが付き従っている。間違いなくオーギュストの母親だろう。
こちらに気がついたらしく、両手を広げて、盛んに振りながら走り出す。しかし、もう少しという所で足を滑らせて転んでしまう。
「こ、この感じ……」
ティルローズは身近な人物と同じオーラを感じて、戦慄した。
「タマに、ミケに、クロに、ロイエンタール。みんな久しぶり」
どうやら、刺繍の猫に名前を付けているらしい。
「私、こんな雰囲気慣れてないから、楽しい」
ギュスママは全員を見渡して、女子校みたい、とはしゃいでいる。
「……」
そして、ギュスママと目が止まった。静かにティルローズを眺めている。当然だろう、一人だけ普通の格好をしている。街中と違い、ここでは異様な格好に違いない。
じっとりと嫌な汗が背中に滲み出てくる。
――ま、拙い……。
堪らず、肩を前に入れて、身を捩って、刺繍のあるべき胸元を隠そうとした。
恥ずかしい!
いっそ裸ならば、どんなに気持ちが楽だろう。服を着ていることがこんなにも恥ずかしく思う日が来るとは思いもしなかった。
「は、はじ……」
とりあえず挨拶しようとすると、ギュスママはふっと視線をカレンに向けた。
「お義母さま、はじめまして」
「まあ可愛い。あなたがカレンさんね。すぐに分かったわ。ずっとお手紙を交換しているから、全然初めてという気がしないわね」
「そうですね」
友達のような口調である。カレンは清楚な微笑で答えた。
カレンも卒なく、ギュスママと手紙のやり取りをしているようだった。
――どうして私に隠れてこそこそと!
これほどカレンを憎いと思った事はない。だが、ギュスママの次の言葉で頭が真っ白になった。
「誕生日のプレゼント、ありがとう」
そうギュスママにも誕生日はあったのだ。もう何年やり過ごした事だろう。過ぎ去った日々をこれほど惜しいと思った事はない。
「ミカさんって、本当に綺麗な瞳をしているのね」
ギュスママは、ミカエラのブルーグリーンの瞳を興味津々に覗き込んでいる。ぼんやりとした頭に流れ込んでくる情報によると、ミカエラは春夏秋冬の新作ドレスを欠かさず送っているらしい。もはや気絶したい気分だった。いや、できればどんなに幸せだろう。
「本当にミカさんは素晴らしい女性だわ」
ギュスママは、満面に尊敬の意を表している。
「大学も主席でしょ。本当に尊敬しちゃう」
手を組んで左右に軽やかに振る。
「ギュス君、勉強できなかったから、あなたのような人の支えが必要なのよ。これからもよろしくね」
「恐れ入ります」
ミカエラが勝ち誇ったように胸を張っている。何とも不愉快である。この計算高い女のあんな顔を見ることになろうとは、情けない限りである。思わず、こんな時アフロディースが居れば、と初めてその存在をありがたく思った。
「あなたとアフロディースさんがそばに居てくれたから、ギュス君も成功したのだから……そう言えば彼女は?」
アフロディースの不在が、誰ともなく伝えられる。瞬間、ギュスママは極度の落胆を体全体で表す。
「……ギュス君喧嘩弱いから、ディースさんを一番頼りにしていたのに、国に帰っているの……心配だわ」
即座に前言撤回である。あんな怪力女に頼ろうとした自分を恥じる。やはり、信じられるのは自分である。
『神聖不可侵、カール大帝の直系、第12代サリス皇帝カール5世息女、帝国第二皇女、シデ大公妃、サリス復興の立役者、救国の女神、時代の寵児……』
恐れる者は何もない。我が血筋の前では、頭脳派も剣豪派も恐れるに足らず。ティルローズは、危機的状況を打開すべく、果敢にも一歩前に出る。
「あのー、紅茶でも如何ですか?」
サリス秘宝の最高級品が棚にあった、と思い出す。スプーン一杯分で城と交換したという逸話がある程の一品である。まさに切札と言えよう。
「ごめんなさ〜い。あたし紅茶は飲めないの」
すかさず、横から「おいしいハーブティーがあります」と声が入ってきた。
「わーぁ、楽しみ」
ギュスママの瞳から星が零れている。
――し、仕舞った!
墓穴とはまさにこのことだろう。このときティルローズは情報の大切さを知った。
「そう言えば、あのハーブ園はどうなりました?」
「やはり道路になりました」
「私達は必死に反対したのだけど……」
「そう残念だわ。でも、あなたたちの所為じゃないわ。仕方なかったのよ」
ティルローズは横で会話を聞いて、ピーンと来るものがあった。セリア再開発にあたって、郊外の由緒あるハーブ園を取り壊して、幹線道路を通した。その際、ミカエラやカレンが反対の嘆願書を送ってきた。セリアの事まで口出しされて堪るかと強引に計画を推し進めた……。
――もしかして、嵌められた……。
鮮やかに甦る記憶に比例して、身体中がカッと燃え上がっていく。
「あなたがチルさんね」
改めて、ギュスママがティルローズを見詰める。炎のような身体が、一瞬で氷点を下回った。しかし、さすがオーギュストの母親である、人の名前を覚えられないらしい。
「ギュス君がいろいろと迷惑をかけているようね。ごめんなさい。ギュス君は田舎者だし、取得もないから、あなたが怒るのも無理ないわ……」
滝のように汗が流れ落ちて、眼がぐるぐると回る。
この人はいったい何のことを言っているのだろうか。もしかしたら、心臓を取り出すと言った事を伝え聞いて、真に受けているのだろうか。誰が告げ口したか分からないが、いやあとで必ず突き止めるが、ここはとりあえず、あれは冗談なのだと伝えなければならない。ティルローズは迷走する思考で、こう考えた。
「……」
が、口が乾燥して言葉を普通に紡げない。あわわわ、と囀っていると、さらにギュスママは追い討ちをかけてくる。
「また何かしでかしたら、その時は私に言ってね。私も協力して一生懸命頑張るから、ギュス君を叱らないで」
誰が何を吹き込んだのか知らないが、そうとうな悪女になっているらしい……。ライバル達を見遣ると、素知らぬ顔で視線を外している。その頭に狐の耳が垣間見えた。
――こいつら、グルだな……。
どこかでガタガタと壊れる音がする。次第にその正体が、これまで保っていた自らの優位性の崩れていく音だと知った。
――ピ、ピンチだわ……。
【サイア】
宮殿では、連日、会議が繰り返されていたが、何一つ結論に至っていない。
議論の中心にいるのは、反オーギュストの急先鋒で、財務官吏の若手リーダーである。
「勝手にホーランド朝の皇帝を名乗るとは、どういうつもりであるか!」
「……今更そのような。陛下に正義を求められても……」
親オーギュスト派である執政の歯切れが悪い。
「そもそもこの戦争は、サリスとアルティガルドのもの。サイアは中立であるべきだ」
「……しかしながら、カレン様は今セリアにおられる」
頬の汗を拭う。さすがにカレンを見捨よ、と発言する者はいない。
「今、北サイアではパルディア軍が暴れている。これを放置するのか?」
そこで急進独立派が発言する。
「そうだ」
「今こそ北サイアへ領土拡大すべきである」
若手から賛同の声が挙がる。会議は混迷を深めていく。
「今帰った」
財務官吏の若手リーダーは、今日の自分の仕事に満足していた。やり遂げた、という実感がある。もう少しで、このサイアという国を手に入れることもできるだろう。全てが春の陽気のように温かく輝いて見える。
「どうした、誰もいないのか? うむ?」
自宅に帰ると、リビングから聞き覚えのない笑い声が聞こえてくる。客がいるのかとドアを開けると、妻と娘が、男と鍋を囲んでいた。
「お父さん、陛下ってステキな方ね」
「あなた、陛下に協力してあげてね」
「私の家で、何をしている!」
敬語を使う事も忘れて、怒鳴っていた。
「すぐに出て行け!」
「あ、そう」
男は素直に頷くと、夫人と娘を連れて出て行った。
翌朝、サイアの町は変わっていた。王宮の衛兵の背筋がピーンと伸び、掛け合う声も気合が入っている。さらに、屋根の上の小鳥も整列して囀り、旗までもきびきびと靡いていた。
会議である。
「サイアは独自の道を歩むべきだ」
昨日の続きで、上座に坐る5人の執政に対して、反オーギュスト派の切り込み役が気勢を上げた。しかし、昨日とは何か空気が違う。賛同する声は少なく、反オーギュスト派の幹部連中は、皆青白い顔をして俯いている。
「成り上がりに上下の秩序を教えるべきだ」
切り込み役はまだ気付いていない。
「だまらっしゃい!」
いきなり、議長の執政が怒鳴る。昨日まで、小声でぼそぼそと話していた男が、今日は別人のような威厳を放つ。
「国政を議論する場で、声を荒げるとは、古来よりの儀礼も知らんのか!」
萎縮した若者は、縋るように派閥のリーダーを見たが、彼は意外にも眼を合わせようともしない。呆然としながら、おずおずと坐るしかなかった。
「緊急事態により、議題を変える」
目配りを受けて、別の執政が語り始める。
「カリハバールで、皇太子のバヤジットが、雷竜と契約を結んだらしい。再び中原へ進出しようと企んでいるぞ」
一瞬で空気が鉛と化した。誰もが唖然として、呼吸する事さえ忘れてしまう。
「我らは法と徳を信じ過ぎた……」
最年長の執政が重い口を開いた。
「現実の厳しさから眼を塞ぎ、軍事を疎かにした。そのつけが、カリハバールやアルティガルドに後れを取る結果となった」
「……」
その声に特に激しさはなかったが、水が大地に染み入るように、静かに人々の心へ響いていく。
「では老人はどうせよと?」
「無論、武に溺れるなど論外だ。我々は内側に対して道徳を広め、外側に対して、軍備を整えるべきだったのだ」
「……」
「敵に倒された民の屍にいくら哀悼を尽くそうが、それは真実の慈愛ではない」
反論はなく、会議は短い時間で終決した。
この日の午後、宮殿の大ホールに、サイアの官僚達が集まった。そして、玉座のオーギュストに対して、全員で平伏して忠誠を誓った。
「大儀」
このサイア滞在中に、オーギュストが正式の場で放った唯一の言葉だった。
【10月、サリス】
オーギュストは、サイアからカッシー州に入った。
先陣にリューフ、第二陣にベルティーニ、第三陣にはサイア勢のゴーティエ・デ・ピカード鷹威将軍、そして、オーギュストの本陣と後詰のロックハートへ続く。そして、ニブルヘルムからマルセル・ラマディエが、ヴェガの八腕を率いて合流してきた。
「皆の忠誠に感謝する。今までよく耐えてくれた。これより反撃に転ずる」
オーギュストは、全軍に語りかける。
「ベルティーニは、正面から派手に矢を射掛けろ。リューフは側面へ展開、ヴェガの八腕は林を抜けて搦め手から攻めよ」
「おお!」
「もはや、ここまでだ」
アルティガルド軍のザンデルスは、斥候からの報告を受けて、幹部を集めた。
「味方の援護を待ち続けたが、国境で足止めされて久しい。敵の援軍が先に到着したからには、これ以上ここに留まる理由もない。参謀」
「はっ」
下にくまのできた目を、アルティガルド自慢の頭脳集団へ向ける。
「一つは、全軍でサイア方面へ出陣して、ディーン軍を中央突破した後、カイマルク方面へ北上します」
「……」
ザンデルスは身を固くして、眼を閉じて聞いている。
「もう一つは、タラ山を抜いて、北東へ進みます。北サリスには我が軍の砦が幾つか残っています。敵の足止めに利用できましょう」
「後者だ」
即座に決断すると、大きく目を剥いた。
「北サリスの国境には、援軍がいる。これと合流して、反転、のこのこと攻め来たディーンを打ち破るぞ!」
怒声を吐く土色の顔に、僅かな紅潮が差す。
「全軍でタラ山を攻めよ」
ザンデルスは飢えた将兵に命じる。
陣を捨て、出陣したアルティガルド軍は、タラ山へ殺到する。タラ山のディーン軍主力は、その勢いに驚いた。
「陛下の留守に気づかれたぞ」
麓の部隊は、戦意なく、全て山中に逃げ登った。
「よし、全軍転進せよ」
これを見届けて、ザンデルスは攻撃を中止し、軍を国境の方角(北東)へ向ける。
一日遅れで、オーギュストがタラ山に到着する。
「もう少し粘れよなぁ……」
騎馬の上から敵陣の跡を見遣って、傍に侍る刀根小次郎相手に、小さく愚痴った。
「アルティガルド軍、さすがによく鍛えられている。腹へっているだろうに、ふふ」
アルティガルドの退却の見事に舌を巻く。そして、率直に賞賛したあと、軽く嘲笑した。
「ですね」
つられて軽々しい声で答え、小次郎は突っ張っていた頬をやや弛みかける。と、オーギュストが鋭く睨む。それにびくっと怯えて、落馬しかけた。
「軍の再編は終わったのか?」
オーギュストの眼光は、ヤン・ドレイクハーブンへ向かっている。
「はっ、終わっております」
ヤンは、明朗に返答した。
ディーン軍の将兵一人一人は、自分の役割を理解し、行動に責任をもち、他の者と連携をして共有する目的へ邁進した。結果は、尋常ではない速さで追撃戦の用意を整えた。
「よし追うぞ。ただし、決して敵の進路を遮るな。後ろから矢を浴びせよ」
オーギュストの猛追が始まる。
アルティガルド軍は、第五軍ボーデンシャッツ中将を殿にした。ボーデンシャッツ中将は、街道脇の小高い丘の上に築かれた中継基地に入って、オーギュストを迎え撃つ。
「ここでディーンを止めるぞ」
「おお!」」
決死の覚悟で部下を叱咤した。その士気は高い。
オーギュストは軍勢を四つに分けた。
サイア勢は戦場を大きく迂回して、敵本隊を追撃し続ける。
あとは、ベルティーニが速攻で正面から矢を射掛けて、ボーデンシャッツ軍の守備態勢を乱すと、側面へこれ見よがしにリューフが進軍する。ボーデンシャッツ軍の全将兵の目が釘付けになっている隙に、ヴェガの八腕が、密かに搦め手へ回り込む。
搦め手は、自然の急斜面で、とても武器を持って登れるようなものではない。故に、人工的な障害はほとんど施されていなかった。
その急峻な坂をヴェガの八腕が、まるで平地を駆けるように、難なく登っていく。
「背後から、バカな!」
予想外の攻撃を受けて、忽ち無防備の本丸が陥落した。ボーデンシャッツ中将は、自ら剣を抜いて最後まで戦ったが、数人の雑兵に圧し掛かられて、ついに首を斬られた。
戦いは、一時間もかからずに終わった。
「急げ」
ボーデンシャッツ中将が稼いだ時間は、ほんの僅かでしなかった。アルティガルド軍の必死の行軍が続く。
「国境はまだか! うむ、あれは?」
街道を進むザンデルスの眼前に、予定外の軍勢が出現した。
「どうやら味方ではないようです。如何致しましょう?」
双眼鏡を覗く参謀が呟く。セオリーなら、斥候を放つべきであろう。
「このまま突き破れ。止まればディーンに追いつかれるぞ」
ザンデルスは、この軍勢を確認することなく、攻撃を命じた。
ただし、この軍勢は、ルブラン公国軍を破ってセリアを目指していた、親アルティガルド派のセレーネ半島貴族連合であった。つまり同盟軍ということになる。
連合軍は休憩中だった。全軍に勝ち戦気分が蔓延して、兵は武装を解き、指揮官は優雅に茶を楽しんでいた。
そこへ野獣のようなアルティガルド兵が襲い掛かる。
全将兵は、半狂乱となって、『故郷への道が閉ざされるぞ!』と叫び、猛然と突き進む。飢えと疲労で歩くのもやっとだった兵が、信じられないような力を発揮していた。
不意打ちを受けて、忽ち、貴族連合軍を蹴散らしてしまった。三分の二の貴族が命を落として、兵は物資を捨てて逃げ出した。
アルティガルド将兵が、冷静さを取り戻したのは、奪った兵糧で腹を満たし終えた後だった。そして、自分たちの蛮行に、後悔が心を蝕み、疲れがどっと体を満たしていく。もう誰も彼も地に臥せて、微塵も動こうとしない。
一方、ザンデルスとセレーネ半島貴族連合の戦闘があった場所から西へ20キロほど離れた旧街道では、もう一つの戦いが始まろうとしていた。
国境を守っていたカザルスは、アルティガルドの援軍を、この北サイアの平野に誘導してきた。
援軍は、近衛軍2万に外様貴族を合わせた約5万である。一方、オーギュストもほぼ全軍の8万を揃えていた。
「ヴィルヘルムは来ているのか?」
軽い睡眠を終えて、本陣に戻ってきたオーギュストがザウリに問う。玉座の前には、全将軍が並んでいる。ザウリはその左端に立っていた。
「いえ、国境に残ったそうです」
「そうか……」
がっかりしたように、小さく笑った。
「仕方がない。皇帝を僭称する者どうし、さしで勝負するのも一興と思ったがな」
オーギュストはゆっくりと諸将を見渡す。
「世知辛い世の中だ。さっさと終わられて、美味い酒でも飲もう」
「御意」
一斉に頷く。そして、ザウリが前へ出て振り返り、布陣の説明を始めた。
「中央にリューフ将軍、左翼にカザルス将軍、右翼にルグランジェ将軍」
陣形は魚鱗である。
一方のアルティガルド軍は、近衛と外様貴族の混成軍であり、複雑な用兵など行えない。故に鶴翼というか横に広く展開して、後は各々自発的に戦う格好となる。
「今こそ皇帝陛下のご恩に報いる時である。励め!」
アルティガルドの総司令部には、小柄だが背筋のすっと伸びた武将がいた。頭部はきれいに禿げて、後頭部で小さな髷を結っている。目は鷹のように鋭かった。
「射よ」
オーギュストが、鉄扇を振り下ろす。
「放て!」
戦いは平凡な形で始まった。
オーギュストは鉄扇を広げて、しばらく続く矢の応酬を観戦しながら扇いでいた。
「リューフが苦戦しているな」
他人事のように、傍らにぴったりと立つ、ザウリに話しかける。
「御意、近衛軍の将兵は、誠実、律儀で慎重、駆け引きを好まず義勇を好みます。リューフ将軍でも正攻法で破るのは、なかなか一苦労でしょう」
「なるほど。では戦いを避けよう」
オーギュストは、親衛隊の隊員を呼ぶ。
「リューフに伝達。接近すると見せて離れ、追って来るなら防ぎ、留まるならば威圧せよ」
ザウリはそのやり取りを冷徹な横目で見ながら、策を語る。
「狙うならば、両翼の外様でしょう。貴族の将たちは剛強ですが、驕りがあり、兵への配慮が疎かで、軍に緊張が足りません。また、各将に協力の意思が薄く、方針が一致していません。その動きはまさに鈍重です」
「ならば、対策は簡単」
と、パタンと鉄扇で肩を叩いた。
「ウーゴ、エステバン、コンラート」
三人の直属の将軍(中領軍ウーゴ・ド・ベアール威北将軍、左領軍エステバン・イケル・デ・ハポン威南将軍、右領軍コンラート・ウラキ威東将軍)を呼んだ。
「我ら陛下直属の軍に大任が与えられた。ここぞ、命の捨て場所ぞ。各々存分に名誉を勝ち取れ!」
三将軍は、敵左翼の右、一番本隊よりの部隊へ迅速に突進すると、僅かな乱れもなくU字型の陣形を作る。そして、猛然と攻め立てた。
「斉射三連!」
リューフは、この三将軍が中央の近衛軍から攻撃を受けないように、圧力を増して、近衛軍に余裕を与えない。
三将軍に三方から攻撃されて、標的となった部隊は脆くも敗走した。しかし、ザウリの予測通り、左翼の各部隊の動きは鈍く、誰も援護に駆けつけようとしない。
この部隊が抜けたことにより、アルティガルド軍の左翼と近衛軍が分断された。
敵中で拠点を奪うと、コンラート・ウラキが一部の隙なく近衛軍を警戒して、ウーゴ・ド・ベアールとエステバン・イケル・デ・ハポンが連携して、側面から敵左翼を攻撃した。
「今だ。突貫!」
機を見て、正面から右翼のルグランジェ将軍が突撃を行う。
この挟撃に、アルティガルド軍の左翼は、まるで積木が崩れるように、ガタガタと乱れていく。一つの部隊が戦意喪失して後退すると、一気に敗色が全将兵の心に忍び込んで、我先にと敗走し始めた。
そして、この左翼の敗走を見て、右翼が俄かに浮き足立つ。
「勝機ぞ。押し出せ!!」
左翼のカザルスが一気呵成に攻め寄せる。
すでに混乱していたアルティガルド軍右翼は、気力も、粘りもない。「ディーン軍が左翼に用いたような攻撃を再現したならば、とても適わない」と将兵は臆病風に吹かれて、逸早く脱出にかかる。
アルティガルド軍が放棄した両翼を、透かさず、ディーン軍が埋め尽くす。瞬く間に、近衛軍の包囲陣が完成した。
「まだだ!」
しかし、近衛軍は挫けず、円陣を組んで、粘り強く戦い続けた。
包囲するディーンが騎兵を突撃する兆しを見せれば、槍衾を形成し、その集結ポイントへ矢を集中させた。
「小さくまとまって、戦の流れが好転するのを待て。必ず勝機は回ってくる」
熱く、近衛軍の総司令官は叱咤激励し続ける。
「頑迷だな。だが、それこど望むところ。蟻一匹逃がすな!」
オーギュストの烈しい命令が飛ぶ。
ディーン軍は短弓で水平に攻撃して、長弓で大きな放物線を描いた。
近衛軍の槍衾の足元に、短い矢が襲う。それらはシールドを並べて防いだ。だが、背後の頭上から黒い雨のように降り注ぐ、長い矢には対処しきれない。頚椎辺りを射抜かれて、次々に槍兵が倒れていく。
ついに、近衛軍の防御線の一角が崩れた。
「赤い騎馬よ、突撃せよ」
そこへ、満を持して、セシルの騎兵が突撃を開始した。
「一騎残らず、返り討ちにしろ。たいした数ではないぞ」
切り込んだ騎兵を、近衛軍の騎士たちが迎撃する。しかし、勢いに乗って駆け込んできた騎兵の長槍は、棒立ちの状態では防ぎ難く、次々に鎧の胸を突き破られて、討ち取られていった。
一方内側から騎兵に追い立てられて、浮き足立った歩兵に、ディーン軍の整然と並ぶ槍の壁が迫った。一斉に突き出され、叩きつけられる槍の波に、近衛軍の歩兵は為す術なく敗れ去っていく。
それでも、戦いが終わったのは、半日後のことだった。ほぼ全将兵が死ぬまで戦い抜いた。
「……グガッ」
近衛軍の壊滅を知って、ザンデルスは短剣で喉を突いて自害した。それに主だった参謀達も随う。残った兵は、まとまりもなく、一路国境へと流れ出す。
「このままアルテブルグまで進撃しますか?」
刀根小次郎が興奮した口調で言う。
「まだ掃討戦が残っている。油断するな」
「も、申し訳ございません……」
オーギュストは勝利に浮かれる機運を、引き締めなおすと、追撃の準備を始めさせた。そして、自らは軽い食事を取った。
サンドイッチを口に頬張った時に、聞き慣れた声が天幕の外から轟く。
「お〜い」
本陣の入り口辺りを振り向くと、杖をついて、痩せこけたマックスが、よたよたと近付いてくる。
「おい、どうしたその格好は?」
驚いた表情をもらして、オーギュストが呟く。
「当たり前だ。あんな第三艦橋のような所に放置しやがって……俺がどんな思いで……ぐすっ……」
ようやくマックスにセリア港の片隅にあった祠の管理を任せていた事を思い出す(第49章参照)。
「ああ、そういえば……」
「気がつけば、味方は退却して、周りは敵ばかりになるし、時には難民にまぎれて、時には夜鷹に化けて、必死に逃げたんだぞ……うがぁアアア」
「泣くなよ。第三艦橋は漢のロマンだぞ」
とりあえず、要点を変えながら、慰めた。
マックスはそんな言葉など耳に入らず、目と鼻から汁を垂らしながらも、テーブルの上のサンドイッチに食らいつく。
「やれやれだぜ……ハッ!」
と、不意にオーギュストは悪い予感が全身を包み込んで、まるで金縛りにあったように動けなくなった。
「お前……創造神に紅茶は?」
「そんなもの、とっくに止めている」
頭をハンマーで殴られたような衝撃が襲ってきた。我が身に、途轍もない凶事が迫っていることを直感した。
そんなオーギュストの様子など微塵も気にせず、マックスは幸せそうにサンドイッチを頬張っている。
「でも、お前が勝ってよかったよ。これで、あのアルティガルドの姫様もお前のものだな。コレクションの完成も近いんじゃないのか?」
マックスは、屈託なく笑った。
「何ですとォ!」
言われた瞬間、凶事の正体が分かった。
「全軍、追撃中止!」
透かさず、本陣中に響く声で叫んでいた。
「如何なさいました?」
小次郎が問う。
「敗走する敵を討って、そこに正義があるとでも思っているのか!」
オーギュストは怒鳴り散らした。無防備な小次郎の顔に、唾が飛ぶ。
「敵は大アルティガルドだ。どんな伏兵があるかもしれん。一旦兵を退け」
今度は戦術論として、攻撃中止の言い訳を語る。
――拙いぞぉ……このままでは和平の証にあの小娘が押しつけられるぞぉ……。
余りのおぞましさに、総毛が立った。
その横で、マックスは呑気な声でおかわりを注文した。
続く