g_03.gif エリーシア戦記

...Record Of Ariesia War...


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第53章 同床異夢


【神聖紀1231年7月セリア】
 月が出ていた。
 セリア港には霧が湧き、鈍い光に照らされている。港に浮かぶ巨大な船は、まるで湖の底の岩礁のように蒼ざめて見えていた。
 三隻の大型船が、縦に並んで、港の入り口へと差し掛かった。山が緩やかに動いているようで、ある意味幻想的な光景である。
 と突然、先頭の船の舵から小さな火花が弾けた。忽ち走行不能となり横を向き、その腹に後続の船が追突した。さらにもう一隻もこの惨事を避け切れない。三隻の船は縺れるようにして、水中に没していった。
 この事故が戦いの狼煙だった。

 7月の太陽が、大地を灼き始めた。
 夏草は猛々しく伸びて、エリース湖から吹き抜ける風に靡いている。
 今、無数の騎馬が、青々とした草の上を駆けていく。その馬蹄が、力強い根ごと夏草を削り取った。
 ついにオーギュストが山を降りた。セシル麾下の軽騎兵が尖兵となって、セリア近郊に残ったアルティガルド陣地へ突進する。
 一つの戦場が構築されると、その横を、第二波が通り抜けていく。戦いの決着どころか、敵襲を伝える伝騎さえも追い越して、新たな戦いを挑んでいく。
 第三波、第四波が、次々に戦場を掠め過ぎていく。そして最初の戦場で戦いが継続されている時、無傷のままオーギュストの本隊はセリアに到着した。
 アルティガルド軍は倍の数を有しながらも、セリア住民の暴動を恐れて、戦わずしてセリアを放棄した。残された周辺の守備隊も、本隊に合流しようと西へ退いた。
 こうして、オーギュストは電光石火でセリアを奪還した。

 翌朝、オーギュストは、大貴族や幹部武将を引き連れて、城門の前に現われた。快晴の下、誰もが黄金や羽で綺麗に着飾って、その派手さを競い合っている。
「お前、最近アホウがさまになってきたな」
「はぁ?」
「そんなことより、俺のところに来てから、一勝ぐらいしたのか?」
「殺すぞ、ドアホ!!」
 オーギュストは民衆の盛大な声援に手を振って応えながら、側近達と楽しげに談笑している。
 そこへ、メルローズを乗せた馬車が到着する。一斉に居並ぶ貴族や武将が、平伏叩頭した。その徹底した恭しさの裏には、サリス皇帝の権威を、身をもって示し、民衆に広める意味があったろう。
「第十三代サリス皇帝メルローズ様、セリアご帰還!」
 澄み渡ったラッパの音が、恰も穢れたセリアの地を浄化するように鳴り響いて、それに続けて、式部官の声が、情感たっぷりに高らかに告げた。
「出迎えご苦労です」
 メルローズが、よく通る声で愛らしく告げる。
 三つの伝国の秘宝の一つ『スタールビーの王冠』を、頭上に頂いている。しかし、その存在さえ翳めてしまうのは、まだ幼さの残る表情の中に垣間見える、絶対不可侵の輝きであろう。その美しさに、誰もが息を呑む。
 無論オーギュストも例外ではない。立ち上がろうとしたが、メルローズの威厳溢れる姿に、思わず腰を浮かしたまま凝然とした。
――何か……見たことあるような……。
 曖昧なデジャヴーが、不意にオーギュストの脳裏に浮かんで消えた。その正体を追いかけようと記憶の底へ意識を沈めかけた時、メルローズが屈託なく微笑みかけてくる。オーギュストはすぐにこの疑問を忘れて、メルローズへの温かな思いで胸をいっぱいにした。
「セリアへ、ようこそ」
 二人はそのままセリア大聖堂へとパレードした。その後、オーギュストは一旦本陣へと向かう。


「水兵の抵抗は終わりました。物資のほとんどを確保できるでしょう。ただし、港を封鎖している沈没船の撤去は終戦後となります」
「分かった」
 ダリ・カスティーヨの報告に、オーギュストは書類から顔を上げずにぼそっと頷いた。
 オーギュストは用意された書状に淡々と自己のサインを書き込んでいる。これらはセレーネ半島の貴族などに宛てたもので、第十三代サリス皇帝メルローズのセリア帰還を報せている。そして、メルローズと結婚して、第14代サリス皇帝に即位すること、アルティガルド追討勅令を発行して、自らそれを実行する事が記されていた。
 すでに、聖森派の学者たちが、ホーランド朝を正統とする見解を発表しており、メルローズを正式な皇帝とし、アルティガルドのヴィルヘルムを偽帝とする世論が短期間に形成されていた。故に、読んだ者にとっても、意外性には乏しかったろう。
 オーギュストは、今日中に百通以上を書き上げねばならなかったが、メルローズの美し過ぎる姿がちらついて集中できずにいた。
――あれは……ディースに匹敵するかもしれん……。
 背中を得体の知れない寒気が駆け抜ける。
「いかん。不埒な妄想をしてしまった。あれはメルちゃんだぞ。妹みたいな……」
 記憶の奥から、お兄さま、と呼ぶ声がエコーを効かせて聞こえてくる。
「あーーぁ、ダメだ。煩悩退散! 節操招来!」
 ぶつぶつと呟いて、机に伏せる。そして、書状を吹き飛ばした。
 改めて気がつけば、首と肩も鉄のようにこっている。何か甘いお菓子でも食べて、一服したい気分だった。
 カスティーヨと入れ替わって、サラ・ヴィスコンティが入ってくる。
「ルブラン公は、敵第三軍司令官ライナー・アウグスト・ゲーベルス少将を夕食の席で、その主立った部下とともに討ち取りました。残った軍勢にも痛撃を与え、残党を追ってオルレランへ進行中です」
 サラは一切オーギュストの顔を見ようとせず、終始机と床の接する箇所を凝視したまま、無感情な声で報告書を棒読みした。
「ご苦労。ルブラン公によろしく伝えてくれ」
「はい」
 オーギュストはゆっくりと顔を上げて、椅子にもたれた。
「それより気分は治ったか?」
「あっ……あの折りは……」
 サラの手から報告書がするりと抜け落ちてしまう。そして、弾かれたように素早く跪くと、慌ただしく謝罪の言葉を述べ始めた。
「……ぶざま姿をお見せし、かつ、大切な部下の方をみすみす……」
 オーギュストは掌を見せ、水を掬うような手付きで、サラに立つよう促した。しかし、サラは一向にオーギュストの仕草に気付かず、一心不乱に言葉を紡ぎ続けている。業を煮やしたオーギュストは、徐に立ち上がる。
「心より深くお詫び申し上げます……」
「もういい」
 耳元で声がして、ようやくサラの声が途切れる。仰いで見ると、もうオーギュストは正面のソファーに向かって歩いていた。そして、グラスを二つひっくり返すと、ブランデーを注ぎ始める。
「こっちに来い」
「……」
「水臭いぞ」
 何気ないその一言に、思わず、サラは眼を見開いて、固く結んだ唇を震わせる。
「どうぞ、あっ、あのことはお忘れ下さい……」
 切羽詰った声で、必死に懇願する。
 あの夜、二人は情を通じ合わせた。
 サラは恐怖から見苦しいほど取り乱し、オーギュストは抱き寄せて、優しく慰めてやった。強き存在に包まれて、ひと時サラは充実した安らぎを得た。
「どうぞご容赦下さい……」
 そのうじうじとした仕草は、日頃の硬い態度とは、余りにもかけ離れていた。
「そう硬くならず」
 オーギュストは戻ってくると、グラスを差し出した。
「まあ一口飲んで、力を抜いて」
「ご、ご勘弁を……」
「酒ぐらいで大袈裟な、アハハ」
 抗議のために震える瞳を上げると、赤い瞳が迫っている。刹那、全身が金縛りあった。
「……そんなつもりは……」
 身を引きかげんにして、サラは喘ぐように呟く。その腰へ、オーギュストはそっと腕を回した。
――あぁ…また……。
 力強く抱き寄せられた時、心臓が苦しいほどに高鳴る。
「……これ以上…主人を裏切らません……」
 二人の関係には、罪しか芽吹かない。オーギュストの胸はまさに薔薇の園である。踏み込めば踏み込むほど、無数の棘が身体を容赦なく傷付けてくる。が同時に、甘い香りが心を妖しげに痺れさせていた。
「はぁ……ん」
 謎めいた吐息をもらして、サラは顔を強くオーギュストの胸に沈めていく。顎にオーギュストのしなやかな指がかかると、魔法にかけられたように、ぼうっと上気した顔を起こしてしまう。
「可愛いよ」
 甘く呟くと同時に、オーギュストはサラの唇を奪う。初めは小さく啄ばむようにちゅっちゅっと二、三度と口付けして、やがてぬるりと舌を出す。サラも薄くルージュの引かれた理知的な唇を開いて、行為を受け入れていく。
「あ、アン……」
 舌先で口の中を愛撫されると、自然と鼻からだらしない吐息が零れていく。
 オーギュストは次第に大胆に舌を動かし始めた。
 ディープキスの予感に、サラは身を固くした。恐怖がぶり返して、再び身を引こうとする。その瞬間、オーギュストの腕に力が入った。
 まさに為す術なし。
 その圧倒的腕力の前では、一切の抵抗は無意味であろう。観念は、それまで押さえ込んでいたサラの情念を呼び覚ます。
――ああ、アメリア様、許してください……これが最後のキスです……。
 激しく口を吸われ、荒々しく喘ぎながら、サラは心の中で詫びた。


 翌日、オーギュストは再びセリア大聖堂へ向かった。
「結婚式の前に花嫁に会われると不幸な事が起こりますよ」
 式を担当するファイナ・デ・ローザスが忠告したが、オーギュストは鼻で笑って部屋に入った。
「おっ……!」
 そして、声を失った。
 メルローズは広い部屋の中央に、純白のドレスを着て坐っている。その輝きは、悠々とドレスからはみ出して、まるで天使の羽のように部屋中に広がっている。部屋を飾る黄金の装飾も鮮やかな色彩の陶磁器も、今や見る影もなく色あせている。
「……」
 メルローズは上目遣いにオーギュストを確認すると、顔を真赤にして、初々しく俯いた。
 その瞬間、オーギュストは1ミリ秒前までの自分を烈しく恥じた。
 何と恥じ多き人生だろう。経歴の欄には、色と欲に薄汚れた事例ばかり並んでいる。ああ、今すぐにでも逃げ出して、百杯の冷水を浴びて清め尽くしたい。悔い改めて清く正しく生き直したい。
「どうして泣いているの?」
 メルローズが問う。
「君を守れる事が嬉しいのだよ」
 オーギュストは頬を流れる熱い涙をそのままにして、静かに笑った。
「君は何も心配する必要はないよ」
 オーギュストは跪くと、ドレスの裾の乱れを正していく。
「僕は誓う。君に降りかかる火の粉の盾となろう」

 オーギュストは一旦部屋を出た。目尻の滴を指先で拭っていると、ファルコナーが神妙な面持ちで近付いてくる。
「申し上げます」
「何だ?」
 無様に、声がひっくり返ってしまった。
「ティルローズ様が、グリーズ離宮にて叛乱を起こされました」
「馬鹿は無視しろ。誰が相手するか。すぐにアルティガルドが戻ってくるのだぞ」
 オーギュストは歩き出す。
「しかし、ティルローズ様はユリア様を人質に取っておられます」
「……」
 まず足首の力が抜け、次に膝、腰と、無様な過ぎる格好で前のめりに倒れた。そして、赤い絨毯の上で、しばしバタフライに興じた。

『ユーちゃん。お食事の後は歯を磨くのだよ。あとね、お外に出る時は、日焼け止めクリームと日傘を忘れないようにねぇ。それから課題の金星の観測も忘れちゃいけないよ』
 オーギュストは鉄柵にゴキブリのように張り付いて、繰り返し喚いていた。
「あなたも大変ねぇ」
「慣れていますから」
 ティルローズが目を細めて語りかけると、ユリアがさらりと髪を払った。
 バルコニーの奥の部屋では、二人が並んで、ケーキを食べていた。テーブルの上には、セリア中から集めたケーキが、いっぱいに並べられている。
「あたしも、ほら、お母様のあとを継いで、世界一の美女にならないといけないでしょ…はぁ……結構プレッシャーなのよねぇ」
 ユリアが深いため息を落とす。それから、ティルローズをまじまじと眺めた。
「その点、おばさんは、気楽でいいわね」
 ぼそりと呟いて、チョコレートケーキを取った。
「2番目の女って、幸せよね」
「今何か言った?」
 ティルローズの瞳が殺気立つ。
「こっちはあんたのバカ父親のせいで、苛立っているのよ。あんまりふざけたこと言わないでよね。……どうなるか自分でも分からないのだから」
 苺のショートケーキを大きく口を開けて丸ごと飲み込み、膨らんだ鼻の穴から、苺色の息をどっと吐き出した。
「マリーお姉さんと違って、おばさんは短気だよね」
 ユリアは意に介せず、口の周りのチョコを舌で舐め取りながら、またずけずけと喋り続ける。
「どうして、お姉さまがお姉さんで、私がおばさんな訳?」
 ティルローズの顔は笑っていたが、瞳が射るように鋭い。
「眉間の皺」
 ユリアは淡々と、そして、明確に指差す。
「こ、これは戦う女の勲章よ!」
 思わず心臓が高鳴った。最近、元に戻らないのでは、気になっている。
「でも、ママないよ。すべすべでぱりっぱりっだよ」
「一々ムカつくガキだねぇ。あのバカにそっくりだ」
「でも、そのバカの子供が欲しいのでしょ、おばさんは?」
「……違う。私の息子が欲しいの!」
 ぐっと顔で迫る。
「さっぱり分からない」
「子供には…ふん…分からないのッ!」
 鼻息荒く言い切る。
 その時、外からオーギュストがティルローズに呼びかける。
『お姉さんが泣いているぞ。無駄な抵抗は止めて出てきなさい』
「あのお姉さまが、そんな簡単に泣くか!」
 もう一つ頬張る。
『ユーちゃんは人類の宝だからねぇ。くれぐれも泣かせちゃダメだぞ。ユーちゃんの機嫌が一時間悪くなると、人類の進歩は、十年は遅れるからね』
 オーギュストは、メガホンで喚き続けている。
「え〜い、うるさい!!」
 ついに、我慢の針が振り切れた。ティルローズは、バルコニーに飛び出す。
「静かにしろ。バ〜カ!」
 口を大きく開けて、子供っぽい仕草で言う。
「兎に角、バカでいいから。少しぐらい空気読めよ。みんな迷惑しているだろうが。ペルレスなんて自害するって泣いているぞ」
「空気が読めてないのはお前だ!」
 旋風が舞うほどの鋭い振りで、指差す。
「はぁ?」
 意外な返答に、オーギュストが首を捻った。
「泣いているのは、お姉さまでもペルレスでもない。ユリアだ」
「……」
 完全に意表を衝かれて、オーギュストは頭が真っ白になった。
「パパの普通の遺伝子のせいで、ママのように綺麗になれないって苦しんでいるぞ」
「……」
「……ん?」
「……」
「……おい?」
「……」
「……死んだか?」
「……そうだったのかーーぁ!」
 オーギュストは絶叫すると、力なくその場に崩れ落ちた。
「ゴメンよ、ユーちゃん。パパが悪かった……パパが普通でゴメンね……ぐわわわわじん」
 そして、外聞もなく、大きな声を上げて泣きじゃくった。
――そんなに気にしていたのか……。
 予想外の効果覿面に、ティルローズは少し悲しい気持ちになった。


 その時、少し離れた場所では、ファルコナーが部下に耳打ちしていた。
「遮音結界は?」
「三重に」
「足りない。念のために、あと二つ用意しろ」

 パンパンと手の埃を払って、ティルローズが部屋に戻ってくる。
「悪は滅びた」
「あたし大丈夫だよ。綺麗なだけのママと違って、人類史上最高の知性があるから」
 大きな瞳をぱっちりと開いて、ユリアが屈託なく言う。
「そう、あたしはこの世で誰よりも賢く、そして美しい幼女」
「なんかムカつく……」
 ティルローズはユリアの弟を産む事に不安を抱く。そして、石よりも固いと信じていた信念が揺らぎ始めたのを感じる。


 数時間後、オーギュストはよろよろと大聖堂へとつづく大階段を登っていた。
「メルローズ様には、お知らせしません。あとはローズマリー様にお願い致しましょう」
「……」
 ファルコナーの言葉を、虚ろな表情で聞いている。
 その時、さっとファルコナーがオーギュストの前に盾のように立ち、誰何する。
「何者だ?」
 大聖堂の扉の前に、不審なローブ姿の男が立っている。
「人違いだろう――」
 ぼそぼそと生気のない声で、オーギュストが呟く。
「俺はただの通りすがりの普通のおっさんだよ……」
 自虐的に呟くオーギュストの横を護衛の兵士たちがどたどたと階段を駆け上っていく。そして、ローブを剥がそうと手を伸ばした時、男の腕が踊った。
 両腕が大きく弧を描き、五本の指が扇のように広がる。そして、指先に力が漲った次の瞬間、ゆったりとした動作からいきなり瞬速に切り替わると、直線的に空気を裂いていた。
 その鋭い振りは空気に真空が作り出す。忽ちその隙間に、真紅の炎が吹き込んで、炎の刃と化した。
 十本の赤い閃光が、兵士達の体を泥人形の如く切断した。吹き上がるべき血が、忽ち炎に焼き尽くされて、肉の焦がれる嫌な匂いが周辺に蔓延する。
 ローブの裾にも火がついている。メラメラと揺らぐ炎の奥で、男は笑い、そして、気合と共に炎を己の闘気に変えた。
 血が染み込んだように生々しい赤い肌が、まるで甲殻のように固くなり、髪は逆立ち、口は耳まで裂け、極端に吊り上がった目は、赤い泉の中に鈍い黄金色の瞳が浮いていた。しかし、頬の傷跡はまるで泣いているように見える。
 ファルコナーがたじろぎ、オーギュストはその肩を押し退けて前へ出た。
「鬼か……珍しいな」
 オーギュストはすれ違いざまに、ファルコナーの腰から剣を抜いた。
「その面……見覚えがあるぞ」
 剣を肩に担いで、首を二、三度左右に傾けて、首の骨を鳴らした。
「確か、ドルジ!」
「我が名はアーダム。シズカの仇を討つ! シズカの苦しみ、存分に思い知るがいい!!」
「勝手なことをぬけぬけと……!」
 オーギュストは短く苦笑いしたが、忽ち瞳に殺気が宿って、思考するよりも早く、剣を突き出していた。
「世迷言は死んでから言え……うむ?」
 剣先は的確にアーダムの胸を貫く。手応えを確信した瞬間、眉間に違和感が過ぎった。
「ふふ、この程度か」
 アーダムがにやりと不気味な笑みを浮かべて、徐に左手で剣を掴む。と、鋼の剣が、みるみる熔けていく。
 咄嗟に、オーギュストは剣を離して、後方へステップする。その残像を、アーダムの右手の爪が掻く。
――あの爪は厄介だ……。
 オーギュストは四、五段ほど階段を下りる。
 それをアーダムが追う。
「逃がさん!」
 アーダムは顔を階段すれすれの低さにして、非常識なほど体を屈めて踏み込んでくる。
 オーギュストは蹴りで迎え撃とうとするが、上げかけた足を止める。目測よりも、アーダムの動きが速いのだ。
 アーダムの爪が足元から衝き上がってくる。それを間一髪、背筋を反らして回避した。
 舞い散った髪が燃える中、アーダムの二の矢が動き出している。腰の横に構えた左腕が高速で突き出させた。
 オーギュストは即座に、アーダムの右肘を左手で掴むと上へ捌き、右肘を使って、アーダムの左拳を下へと押し込んで軌道を反らした。
 二人の顔が間近に迫る。互いの瞳が一人の女性の死を責め合っている。
 無理な体勢ながらも、オーギュストは左足でアーダムの右膝へ蹴りを入れる。渾身の一撃で、膝が変な方向に曲がった。
「うぎゃぁあああ!」
 しかし、アーダムも左足を、オーギュストの顎目掛けて鋭く振り抜く。二人の狭い体の間を、猛然と足の爪が踊り上がっていく。
「こなくそッ!」
 顎を直撃させると直前に、肘に火傷を負っている右腕を最短で動かし、まるで腕時計を見るような格好をして、アーダムの脚の側面を打って軌道を変えさせた。しかし、左頬が黒く焦げてしまう。さらに、危機は終わらす、上がり切った足が勢いよく落ちてきた。
 だが、オーギュストは僅かながら肩を前に出して、踵の直撃を避け、アキレス腱を受け止めることが出来だ。そして、体勢が完全に乱れたアーダムに対して、今度は右足で、右膝の裏を蹴る。
 アーダムの右足が折れて、左へ倒れていく。
 しかし、オーギュストはまだそれを許さない。アーダムの右肘を掴んでいた左腕で、ぐっと引っ張り上げると、腕、肩、首の伸び切った瞬間に、顔面を踵で踏み叩いた。3発目で、アーダムの体が弾んで跳んだ。階段の石材を抉りながら、階段脇の石塔へと突っ込んでいく。
 さすがに、もう一度追撃とはならず、大きく息を吐きながら、オーギュストはもう二段ほど階段を下りた。
「梃子摺らせやがって……ちぃ」
 荒い息で、感想を述べた時、石塔の破片が動いて、アーダムが立ち上がってきた。
「頑丈な野郎だ……」
 もう左肩はピクリとも動かせない。右手も、肘と拳が麻痺していている。しかし、アーダムも、右足が完全に壊れ、右目も潰れている。さらに、右腕ももはや使い物にならないだろう。
「さて……」
 重苦しく、オーギュストは呟く。どう蹴りを叩き込むか、戦術を廻らす。
「うぼぉおおおお!」
 その時、不気味な雄叫びとともに、左の爪で右脚と右腕を切断して、大量の血を撒き散らしていく。血は燃えずに揮発して細かな霧となり、周囲を覆いつくしている。そして、怪しげな赤い靄の中に、二人の姿は消えていく。
「これは……」
 赤い闇の中に佇むと、強いアーダムの思念がひしひしと伝わってくる。
「これは勝てない……」
 鬼にまで姿を変えるほどの強烈な情念が、霧の一つ一つにこめられているらくし、アーダム本体の気配を全く感じ取る事ができない。さらに、嫉み、妬み、憎しみ、哀しみ、そして、どうしようもない愛しさなどが混沌として、五感の全てを侵してくる。まるで溺れているような気分だった。
――負けた……。
 男として、ここまで女性を愛し抜いていない、とオーギュストは痛切に思う。
 しかし、死を受け入れたことで、狼狽と混乱が消えていく。オーギュストは爛れるような怨念の中に、静かに身を沈めていく。死と生が一つになって、心の隅に佇む。そして、その時を凝然と待った。
 虚空となった意識の中に、鮮やかな稲妻が駆けた。オーギュストは無意識に赤い闇を左手で衝いている。
「ぐがぁ」
 アーダムの絶叫で、オーギュストは意識を呼び戻した。
 ゆっくりと立ち上がりながら、左手を引き抜く。そして、アーダムの顔の前へ運んで、取り出した心臓を握り潰した。
 この時、赤い霧は液体に戻って、階段を濡らしていた。


 ティルローズは、金星の軌道を表す数式を壁に落書きしながら眠ってしまったユリアをベッドに運ぶと、ようやく寝室に向かった。女性の部屋らしくない古風な造りだった。
「……」
 窓際の安楽椅子に、オーギュストが坐っていた。藍色のガウン姿である。シャワーを浴びたのだろう、髪は湿っぽくて、ガウンもティルローズのものだから、寸法が合っていない。
「どうしたの?」
「……」
 オーギュストは黙って下弦の月を指差した。
「月を見ることを忘れていた……願うことも……」
 そして、そっと腕をティルローズへ伸ばした。
 ティルローズは、蒼い月の明かりに誘われて、その下へと進む。そして、月の魔力の所為だろうか、ただ素直にその手を取った。
「何を願うの?」
「離れていても、きっと同じ月を見上げていて、この思いを信じていると……」
「……」
 ティルローズも黙って月を見上げる。そして、オーギュストの髪を優しく撫でてやった。
「少年の頃、俺は生き急いでいたように思う。君と出会える、あの夏の、あの島へと」
「……」
「再び君へ出会う日まで、俺は誰とも分からない君を思い、夜毎、きっと君もこの月を見上げているだろうと微かな繋がりを祈っていた……」
 どうしてだろう、自問するように呟く。
「きっと知っていたんだ。君と愛し合う日々を。その見知らぬ記憶へ帰りたいと願っていた……」
「……」
 オーギュストが立ち上がり、ティルローズを正面から見つめる。
「俺のあるべき場所は、常に君の傍らにある」
 オーギュストが肩に触れる。
「俺の子を産んで欲しい」
「いいの? 死ぬわよ、私」
「絶対に君を死なせない。俺の全身全霊で君を守る。心臓が止まってしまうならば、俺の心臓を共有すればいいし、呼吸ができないのなら、呼吸の数だけキスをして空気を送り続けよう」
「……ふふ、バカね」
 ティルローズは優しく微笑んであげた。それだけでオーギュストには十分だった。蒼く濡らされた世界の中で、愛を誓い合うように、二人は口付けを交わしていく。


「朝食、できましたよ」
 ティルローズが、ユリアを上機嫌に呼ぶ。
 ユリアは欠伸しながら、夜着のまま席についた。その頬には、数式が転写されている。
「パパは?」
「出陣しましたよ」
 オーギュストは、アルティガルド軍を迎え撃つために慌ただしく出陣した。
「……急だなぁ」
 挨拶もなしかよ、と不機嫌そうに呟く。 「結婚取り止めたから、反対派を納得させるために、アルティガルドに圧勝する必要があるのよ」
「あっ、それ知ってる。ハサミと闘神は使いよう、でしょ。ママがよく言ってる」
「頑張り過ぎて、心臓止まらないといいけど、ふふ」
 意味ありげににやけて、スープをすする。
「大丈夫だよ」
 眼を擦りながら、ユリアが澄まして答える。
「パパには、異次元に予備と補助の心臓を隠しているから」
 左右の眉を龍のようにしならせて、その中間に地獄が覗けそうな谷を刻む。
「あ〜の男ッ!」
 声を震わせながら、ティルローズは指を鳴らした。


【サイア近郊】
 カフカの風邪は長引いていた。熱は然程ではなかったが、咳が続き、時には血を吐くこともあった。
 ジナイーダは付きっ切りで看病した。そのかいあってか、体調も回復へと向かっているようだった。
「白湯をお持ちしましょう」
「ああ」
 カフカを残して、ジナイーダが奥へと下がる。
 静かになった部屋の中で、カフカは言葉にできない安らぎを感じていた。
 強さとは非情であり、孤独が生き残る唯一の手段だと信じて生きてきた。間違っていたとも思わないし、後悔もない。だが、自分と対等と思えるオーギュストと出会って、それだけでは、世界の頂点には立てないと思い始めていた。
 世の常が非情ならば、第一人者は、それを越えて見せなくてはならない。
 オーギュストは女性を愛する弱さを見せることで、人々に親しみを与えているのでは、と思い至った。そう考えるようになったのも、ジナイーダとの関わり合いがあったからだろう。
 初めて見詰め合った時、胸の鼓動が不思議なメロディーとなり、唇を重ねた時、二つの高鳴る鼓動がハーモニーとなった。何度抱き締められても、切なさが溢れるばかりで、気が狂いそうになる。
 結局、世界を動かしているのは、一人の才能ではなく、小さな出会いの積み重ねかもしれない……。
「お休みのところ申し訳ございません」
 カフカの思考を、部下の声が遮った。
「入れ」
 部下はベッドの傍らに跪く。興奮を抑えきれない声で告げ始める。
「セリアをディーン総帥の軍勢が奪取いたしました」
「早い!」
 カフカは絶叫する。そして、慌ててベッドから起き上がろうとした。
「まだ早い。セリア奪還は、サイア城で一戦したあとでなければ、アルティガルド軍の戦意を挫く事はできない。どうしてこれが分からんのだ!」
 青白い顔で、一気に怒りを爆発させる。その時、どっと大量の血を吐き出して、カフカは意識を失った。


 アルティガルド軍は、サイア攻略の途上、カッシー州軍を一蹴した。
 一方的な敗戦を喫したカッシー州牧ロックハートは、手勢5千とともに州都を捨て、西のショーヴ山脈へと逃走した。
 第六軍クニーゼル少将が、追撃を命じられた。
『何故、サイアへ直行しない……?』
 そのクニーゼルは、ロックハートの動きを不審に思った。そして、遮二無二に殲滅しようとせず、逃げる隙を敢えて与えて、ロックハートが落ち延びる場所を探る。
「山中に隠し砦だと?」
 報告を聞いた宰相ジギスムント・ザンデルスは、ついにオーギュストの策略を看破したと歓喜した。即ち、『山中に軍勢を伏せて、サイア城攻撃中の我が軍の背後を奇襲する』と。
 その夜、直ちに、軍議が召集された。
「隠し砦を発見した際は、ロックハートを仕留めようとしたが、突然、右手前方の高台に騎兵が現われた」
 冒頭で、クニーゼルが状況を説明する。
「騎兵は突撃するぞ、と見せかけて、我らの動きを縛った。この時間稼ぎの間に、砦の指揮官は、ロックハート軍を順次砦に収容した」
 報告を終えてクニーゼルが着席すると、総参謀長のライムントが発言する。
「これほどの手腕は、ディーン本人の策謀であろう。そして、リューフの用兵しか考えられない」
 この意見は、全出席者の賛同を得た。
「まさにゴールデンコンビだな」
 誰かが冗談ぽく言って、軽い笑いが起きたが、余計に空気が重くなった。二人は、まごうことなき強敵である。
 そして、この隠し砦をまず攻略する事が決定する。
 まず、第五軍(ボーデンシャッツ中将)をサイア城の牽制に残して、第一軍(エッフェンベルク中将)が北から、第二軍(ヴァッケンローダー中将)が南から、そして、残り全軍で東から、隠し砦に迫る。こうして大まかな段取りが確認された。
 総攻撃を翌朝に控えた深夜、セリア方面から伝騎が到着して、本陣に激震が走った。
「なんとッ!!」
 報告を聞いて、絶叫とともにザンデルスは立ち上がり、不覚にも暫し我を忘れる。即座に、隣にいた弟のライムントが身を乗り出して質問を続けた。
「では、セリアにディーン本人が居るのだな。間違いないのだな?」
「はい、複数の捕虜を拷問した結果、間違いありません」
 短い沈黙のあと、ライムントは、顔に険しさを広げて、兄を見上げる。
「兄上。すぐに全軍をセリアへ向けましょう」
「あ、ああ。分かった」
 その声はやや躊躇いが匂い、顔にも緊張の色が滲んでいた。
「しかし、山中に入り込む前に分かってよかった。不幸中の幸いですね、兄上」

 その一時間後、更なる衝撃が襲う。
「井戸に毒だと……」
 井戸に毒を投げ込もうとした地元農民の若者が現行犯で捕縛された。ザンデルスは自ら尋問すべく、牢へと向かった。そして、その口から、恐ろしい事実を次々に聞かされることとなった。
「徴収した兵糧にも毒を撒いた」
 悪ぶれもせず、男は答える。
「大それたことをした。何故だ。お前だけでなく村の者も極刑になるぞ」
「ふふ、そんな事はどうでもいいことよ」
「ディーンに唆された?」
 男はゆっくりと首を振った。
「我らが村は、カリハバールが持ち込んだ伝染病で死にかけた。その地獄から救って下さったのが、ディーン総帥閣下であらせられる。
その大恩ある閣下に敵する者達に、麦一粒たりとも渡すものか。これは我が村だけでなく、この国の全ての民の総意である。ぐははは、この区に住む者は全てお前らの敵ぞ。水を啜る時も、パンをかじる時も、せいぜい気をつけるがいい」
 そう言い残すと、舌を噛んで死んだ。
「すぐに焼却しろ」
「え?」
「兵糧をだ」
「あ、はい」
「……」
 白々とあけていく東の空を眺めて、全身が凍りつくような恐怖が体の内側から滲み出てきて、脚の震えを止めることができなかった。


【七月中旬、カッシー州】
……
………
 フヒャンフヒャン……、と奇怪な音をたてて、サリス国旗の中央部が赤く点滅している。
「裏切り者は死。それがサリスの掟だ」
 いつもイライラした女によく似た声が、闇から聞こえてくる。
「偉大なる大首領、まっ、待ってくれ……暗かったんだ。寝ぼけていたんだ!!」
「言い訳は聞かぬ!!」
 闇の中に人影が蠢く。そして、腰のベルトに内蔵された風車を高速で回すと、空高く飛び上がり、片足を突き出して落ちてくる。
「オンドゥルキック」
「は、話せば分かるぅうううう!」
………
……
 オーギュストが浅い眠りから目覚めた。全身に嫌な汗を噴いている。
「また同じ夢か……」
 まだ夢と現実の境界があやふやで、戸惑いの表情で、周囲を何度も見渡した。そこは深い森の中、大木の根元で眠っていた。
「最悪だ……」
 オーギュストは額の汗を手で拭く。

 全てはあのあと、あの明け方に起きた。ローズマリーを『禅譲という形でホーランド朝の帝位を継承するから、メルローズとの結婚は必要ない』と説得し、メルローズも、『これからも兄として慕ってほしい』と願い、了承を得た。その後、出陣の準備とかで忙しく、ようやく明け方にベッドに入った。
 午前四時を回った頃だったろう。しのびやかな足音が聞こえてきた。眠し、きついし、だるいしで、眼を開けるのも鬱陶しかった。その心の思いを酌んで、脳が勝手にこれはティルローズだろうと補完した。補完すれば、何の悩みも残らすに眠れる。
 布団の中に、小さな塊が入ってきた。
 当然、ティルローズだから抱き締める。恋人として何一つ間違っていない。
 抱いた身体は冷え切り、ひどく震えているような気がした。しかし、真夏でも夜は寒いだろうと再び脳が修正を加えてくれた。オーギュストは深く考えることを否定して、体を覆い被さていく。
 この時摩訶不思議にも、相手は身体を固くして、オーギュストの胸にきつくしがみ付いて来た。まさに処女のような恥じらいであろうか、そういう趣向も一興だろうと脳が囁く。
――おっ、ティルも分かってきたじゃないか……。
 などと思いながら、オーギュストは静かに儚い少女を扱うように、そっと背中を撫でてやった。
 夏の夜である。
 二人とも夜着は薄い。すぐに肌と肌が触れ合って、心の傷を癒すような、柔らかな温かさが、じわりと伝わってくる。それは相手も同じなのだろう、次第に冷えた身体は温まり、震えも治まっていく。
 相手はようやく胸から手を離して、顔を上げたようだった。眼を閉じていても、相手の熱い視線を感じる。ティルローズとの情熱的な夜の記憶が甦り、息荒く胸を弾ませた。
 相手の身体を仰向けにすると、胸を開いた。あてた手に重い実りを感じる。夢うつつの頭は、忽ち桃源郷を彷徨った。
――ああ、ティルじゃなくてディースだったか……名前呼ばなくて助かった……。
 心の中でそっと胸を撫で下ろす。その理不尽さには全く気付かず、瞼の裏に映し出された映像は、ティルローズからアフロディースに変更されていった。
 魅惑の谷間に顔を埋めれば、もはや男に理性は必要ない。オスの本能の命じるままに、そのたわわに実った果実を貪っていく。
 左右の乳首を交互にしゃぶれば、可憐な吐息が頭上に零れた。ますます興奮が高まっていき、堪らず、その唇を奪う。手が自然と動いて、その顔をはさみ込むように撫でた。何故か脳裏にメルローズの姿が浮かんだが、脳が一笑に付す。
――メルちゃんがこんな所に居るはずないだろう。
 当然であろう、メルローズは愛妾ではないのだから。
 口を十二分に吸い、手は首から肩、脇、腰、そして脚へと滑らかに這い回る。身体中が躊躇いながらも、桜色に上気していくのが分かる。自然の流れであれば、左右の脚が開いて、オーギュストを受け入れる姿勢を作っていくのであろうが、訝しくも、左右の脚は固く閉ざされて、異物の侵入を頑なに拒んでいるようだった。
 これほどの初心な反応をされては、獣の本性が黙っていられるわけがない。忽ち鎖を切って暴れだす。
 口腔を舌で犯し、右手で乳首を摘み、左手で尻を掴む。激しい愛撫で女を乱していく。
「あああ……あ」
 女は思わぬ官能の昂ぶりに、頭へ熱い血潮を逆流させてしまった。意識は朦朧として、堪らず、首を振り、背筋を仰け反らした。自由になった口からは、控え目な喘ぎをもらしていた。
「……」
 オーギュストは待っている。女が濡れて、自分から脚を開くのを待っている。入れて入れてとせがむのを待っている。
「いや……」
 女は自分のはしたない声を聞いて、羞恥に顔を真赤に染め、顔をシーツに伏せて、指を噛んだ。
 シーツで曇った声が、次第に柔らかく馴染んでいく。とともに、全身が蕩けたように力を失っていく。この勝機を逃さず、オーギュストは両脚を小脇に抱えた。
 束の間の出来事で、女に逆らう余裕はなかったろう。そして、その卑猥な姿勢に気付いて、慌てて脚を閉じようとしても、オーギュストの圧倒的力に抱かれて、もはやピクリとも動かない。
「……アン、うぐッ!」
 恐怖の色を顔いっぱいに広げて、女は永劫とも思えるほどの時の流れに耐えていた。このまま時は止まり、この緊張感の中で、激しい感情の渦を一人持て余し続けるのだろうか、と思う。それはある意味拷問であろうと考えた瞬間、激しい激痛が身体を引き裂いた。堪らず、顔をゆがめた。
「ひっ、あぁぁぁぁッ!」
 強くシーツを握りしめ、足の指を折れんばかりに曲げ、白く細い喉を突き出した。下腹部から広がる衝撃に、全身が硬直して、見知らぬ戸惑いに心は麻のように乱れていく。
 しばらく動いたあと、疲労困憊のオーギュストは我慢できずに白濁を吐き出した。その直後、糸の切れた人形の如く、深い深い眠りに落ちていった。
 眼が覚めたとき、もう昼近かった。身体に疲労があったが、気分は爽快と言って良いほど晴れている。まるで極上のディナーを楽しんだ後のようだった。
「今日も一日頑張るか」
 両手を伸ばしながら、上体を起こすと、シーツの上に赤いシミを発見する。
「はて、怪我でもしたかな……」
 一瞬考えて、顔が青褪めていく。
「いや、そんな筈は……」
 寝る前から記憶を整理する。
「ティル? ……いや違う。ディース? ……居る筈がない。じゃ誰よ?」
 徐々にメルローズの顔をくっきりと脳裏に浮かんでくる。もはやどんなに頭を振っても消える事はない。
 オーギュストは脱兎の如くベッドから飛び降る。
「しゅ、しゅ、しゅ、出陣じゃ……」
 そして、震える声で告げて回り、取る物も取り敢えず、出陣していった。

「うあがぁぁ、俺は正当防衛だ」
 オーギュストは髪を毟り、頭を激しく左右に振った。
「そうだ。あれはやっぱり俺の勘違いで、ティルローズに違いない。そう言えば匂いが同じだったような……」
 縋るように、ティルローズとの最新の行為を思い起こす。

 ティルローズは、ベッドの上で一糸まとわぬ姿となり、気品と勝気さに満ちた美貌を怪しく火照らせて、膝を立て、長い脚でM字を描いていた。開いた股には、淫裂があられもなく晒されている。
「あん、見て、見て」
 ティルローズは子猫のような弾む声を放ちながら、行為のあとの艶めかしい秘唇を指先で開いて見せた。
 どろりと、白濁液が穴から零れて落ちる。
「こんなにたくさん」
 艶やかに囁くと、幼稚な笑みを顔に浮かべて、股間から指を口へ運んだ。そして、甘いお菓子でも食べる時のように、柔らかな表情で指を舐めた。
「おいしい」
 再び官能に火が点いたのか、秘唇を上下に撫で始め、さらに、乳ぶさを揉みしだき始めた。
「あン、あ、あああン」
 忽ち、白濁液を透明な液体が押し出していく。
「ねえ、来て。早く欲しいのッ」
 形の整った眉が、物欲しげにしなり、薄い唇がふしだらに半開きになっている。あの日頃のイライラした姿が嘘のように艶々しい。
「もう焦らさないで……」
 そして、よく磨き上げられた裸体が、悩ましげに捻れ悶えた。
「もっともっと注いで。あなたのでいっぱいにして」
 ティルローズは片脚を上げて誘う。しなやかな脚がランプの淡い光に照らされて、熔けたように境界線がぼけている。
 オーギュストは生唾を呑み込んで、足首を掴むと、淫裂へ分身を埋め込んだ。熱した蜂蜜の壷と化した。ティルローズの秘壷は、ずぼりと呑み込んで、ずちゃずちゃと卑猥な水音を鳴り響かせていく。
 オーギュストは体を倒して、ティルローズの背に寄り添う。そして、ティルローズが首を回してくると、唇を噛むようにぶつけた。
 ぴちゅ、ぷちゅ、ぴちゃ……。
 下の口同様に、忽ち、淫靡な音が鳴り始める。上下での肉の繋がりは、怪しげな協奏曲となった。
 ティルローズは悶えながら、四つん這いとなった。獣の姿勢をしても、まったく美しさを損なわない。尻肉は豊かに円を描き、くびれた腰がきゅっと落ちって、垂れた乳ぶさが身体の微妙な動きに合わせて、ぷるぷると揺らいでいる。
「ウフン、ああん、いいのッ」
 オーギュストが動くと、ティルも搾り取るように膣肉を収縮させて、卑猥なよがり声を上げ続けた。

「ち、違うぅ! 反応が違いすぎる……」
 同一人物とするには到底無理がある。もはや否定しようがない。ああ、自制心よ、お前は翼を生やしてどこへ行ってしまったのだ……。
 オーギュストは頭を抱えながら、大木の反対側に回って、用を足した。見事に赤い尿が出ている。
「やばい……」
 その時、諜報部隊を統括しているヤンが戻って来た。
「陛下、敵を半ば見送りました」
「分かった」
 オーギュストは手を拭きながら、唇を引き締める。
「少し気分転換に、体を動かすか……」
「総員、騎乗!」
 心得ているヤンが、そう叫んで木々の間を駆け回る。


 アルティガルド軍の先鋒は、第二軍ヴァッケンローダー中将、第二陣が第五軍ボーデンシャッツ中将、第三陣が第四軍ザンデルスの直属、第四陣が第六軍クニーゼル少将、そして、最後に第一軍エッフェンベルク中将。これが縦に並んで、セリアへと街道を進んでいた。
 先頭のヴァッケンローダー中将が、カッシー州の東端に至った時、前方にサリス軍旗が小高い山のように並んでいるのが見えた。
「あそこは我が軍の繋ぎの城……」
 カッシー州侵攻の橋頭堡として築き、その後は、兵站中継基地として使っていた。
 間もなく、斥候が戻ってきて、敵の陣城が築かれている事を告げる。
 馬蹄形に湾曲する川を背にして、総石垣の主郭、その前面に、川の最狭部をつなぎ合わせて水掘と土塁で帯のように細長い外郭が築かれている。そして、さらに外郭の外に、三つの丸馬出があった。
「敵の城が一夜で……恐らく、我が軍の遺構を利用したものだろうが、よくも短期間に備えたものだ」
 ヴァッケンローダー中将は、警戒した声をもらす。
「ディーン、なんと愚かな男か」
 一方、参謀長は、はっはっと快活に笑う。
「兵法に『敵に利を与えて誘い出す』とありますが、自分から兵糧に釣られて、のこのこと我が軍の前に出てくるとは、ディーンの浅知恵の泉も尽きたと見えます」
「なるほど、ここが敵の選んだ決戦地と言う訳だな」
「はい」
 司令部の空気が、一気に緊迫していく。いよいよ始まる本格的な戦いの予感に、戦士の魂が震えている。
 そこへ後方のザンデルスから『最後尾をディーンが襲った』と報せが入る。そして、『双頭の蛇の如く、反時計周りに移動して、敵の背後を衝け』と命令が与えられた。


[一日目序盤]
 時間を僅かに遡る。
 殿の第一軍は、大軍ゆえの停滞を甘受していた。
「サイア勢はどうか?」
 最後尾まで馬を走らせ、エッフェンベルク中将は、遥か西、轍の果てを見遣る。最精鋭である第一軍を殿にしたのは、サイア城からリューフが打って出て背後を衝かれた場合に備えてのものだった。エッフェンベルク中将は、その意図を正確に理解して、厳重に斥候を後方に放っていた。
「まだ姿を見せません」
 斥候をまとめる部下の答えに、油断なく小さく頷く。それから、苦い表情で、四方を見渡し、低く唸った。
「うむむ……しかし、場所が悪い」
 カッシーは擂鉢のように周辺よりやや低地で、第一軍が停滞している場所は、緩やかな坂の途中であり、さらに、北東の森から伸びる脇道との分岐点でもある。
「古来より、道の交わる場所に布陣するな、と聞くが……」
 不安げな気持ちが顔を過ぎる。
 その時、北風が涼やかに吹いた。エッフェンベルク中将は、思わず、その風に汗に蒸れた首を晒す。すっと汗が引いて、爽快感に眼を閉じた。
 と、ビューン、と風が鳴いた。
「将軍!」
 運命の一矢が風を切り裂いて、エッフェンベルク中将の首を襲う。鳴き頻る風は、血飛沫の音を加えて、草原に荘厳な調べを奏でた。

「ふぅ……」
 騎乗で残心するオーギュスト。その横を次々に緋色の騎兵が駆けていく。
「吶喊!」
 左領軍エステバン・イケル・デ・ハポン威南将軍のアーカス軽騎兵が、夏草の上を影も残さず疾走する。そして、巧みな馬術で、その速さを維持しつつ、短弓から矢を放ってみせる。
 草むらから飛び立つ蝗の群れの如く、黒い影が夏の空を覆い、貪欲な食欲を満たそうと黒い林へと吸い込まれていく。

「敵襲! 敵襲!」
「何処からだ?」
「側面からだ!」
「落ち着け。槍隊、槍衾を」
 重なり合う怒声に、中級指揮官たちの声がかき消されている。騎乗からの激しい矢の連射に、アルティガルド兵の思考が追い着かない。
 特に、林のように長い槍を掲げていた槍隊は、槍を構える暇も与えられずに、次々に射倒されていた。
「矢を防げ!」
「陣形を整えるのだ」
「シールドで防御壁を」
 若いアルティガルド士官たちが、右往左往する歩兵の肩を掴んで、必死に叫び続ける。
「弓隊、構え!」

「よし、機先を制した」
 満足そうな笑みを浮かべると、オーギュストは右手を上げた。
「ウーゴよ。父の名に恥じぬ戦いをしろ」
 エステバンが引き、間をおかずに、第二波の中領軍ウーゴ・ド・ベアール威北将軍が斬り込んで行く。
 全騎が、聖騎士由来の重装備の鎧をまとっている。散発的に放たれた矢など、その厚い装甲で尽く弾き返してしまう。
 そして、巨漢の馬が、高々と舞い上げた前脚を、人間の頭上目掛けて打ち落とす。ひづめが、シールドごと歩兵を踏み潰す。そして、算を乱したところを、右に左に槍を旋回させて、次々に斬り倒していく。
 波に浸食される浜のように、第一軍の軍列が崩れていく。
「第三波! 止めを刺せ」
 混乱する第一軍に、右領軍コンラート・ウラキ威東将軍が、さらになだれ込む。敵中深く侵攻すると、戦闘準備中の戦車へ火矢を打ち込んだ。
 立ち込める煙が、兵士たちから戦意を奪っていく。


[一日目中盤]
 その頃、総司令部のザンデルスは、参謀達を集めて、策を練らせていた。
「またしても伏兵か! 我が軍の斥候は無能の集まりか?」
「申し上げます――」
 一同恐縮したが、長い付き合いのある初老の参謀が恭しく言う。
「敵は我らの尻尾に喰い付きました鼠も同然です。蛇の鎌首をもって、一飲みにして致しましょう。宰相閣下、勝機でございます」
「うむ」
 ザンデルスは立派な髭を微震させて、唸るように頷く。そして、別の参謀が、具体的に地図上の駒を動かして説明し始めた。
「先鋒の第二軍と次鋒の第五軍を、反時計回りに回転させて、敵の背後を衝かせれば、包囲網が完成致します」
 納得したザンデルスが、興奮の色を顔に広げていく。
「教科書に残りそうだな、え?」
「御意」
 視線を向けられて、総参謀長のライムントが誇らしげに頭を下げた。
 首脳部は、むせ返るような熱気に包まれていたが、その気分を伝騎は伝え切れなかった。
 肝心の第二軍ヴァッケンローダー中将は、目の前の陣城が気になって、なかなか転進できずにいた。
「敵前からの撤退は、慎重に過ぎると言う事はない」
 そう再三の使者に、ヴァッケンローダー中将は答えた。
 さらに、第五軍ボーデンシャッツ中将も、第二軍と歩調を合わせることに拘り、緩慢な動きを続ける。
「我らだけ突出しても、ディーンを捉えることはできない。我らが打ち、素早く逃げたところを、第二軍が逃げ道を塞いで押さえ込む。そして、主力のザンデルス閣下が止めを刺す。こうならなくてはならん」
 単独でも急行せよ、との命令に、ボーデンシャッツ中将は頑として抗う。
 この返答に、ザンデルスは、生来石橋を叩いても渡るヴァッケンローダー中将の評を、頑迷な完璧主義者というボーデンシャッツ中将の評を思い出して、しばし歯軋りした。


[一日目終盤]
「に、逃げろ……」
 その間に、第一軍はついに恐慌状態に陥り、将兵は烏合の衆と化した。
「傷付いた味方を救出しろ」
 そこへ救援に駆けつけた第六軍のクニーゼル少将が駆け付けたが、無秩序に敗走する味方とぶつかってしまい、不覚にも立ち往生してしまう。

「全騎、斉射三連!!」
 その好機をオーギュストは見逃さない。弧に展開して、矢を嵐の如く放つ。
 この攻撃で、陣頭で指揮していた第六軍クニーゼル少将を負傷させた。

 そして、時間を要したが、その分第二軍は無傷で、約90度反時計周りに移動した。これに、第五軍も続いている。
 この時の陣形を時計に例えるなら、すでに第一軍と第六軍は大きく削られたので短針、第二軍と第五軍は無傷なので長針、まさに12時15分の時刻を表しているだろう。
 しかし、アルティガルド軍が長針と短針ならば、ディーン軍は秒針である。この迂回運動を素早く察知して、同じ反時計回りに駆けて、まんまと陣城へ逃げ込んでしまう。
 得る者が何もなかった戦いのあと、疲労困憊のアルティガルド軍将兵にディーン軍の勝鬨が苦々しく染みた。


[幕間]
 オーギュストを迎えたのは、右軍師マルコス・サンス・デ・ザウリ威烈将軍と後護軍フランチェスコ・ブーン揚威将軍である。
「ここは旗屋か、ぼこぼことうるさい」
 開口一番、くだらない冗談を言う。陣城の兵数を多く見せるために、軍旗を大量に並べているのを冷やかしたかったのだろう。ただ激戦を潜り抜けて、精神が昂ぶっている証には違いない。
「ボロ屋へようこそ、陛下」
 ザウリが言う。
「皇帝の棲家としては過去最低でしょうが、一夜の嵐は凌げましょう」
「こんなボロ屋が落ちんとは、世も末だな」
 オーギュストは、主郭の安普請の小屋に入り、汗で蒸れた兜を投げ捨てる。まだ木の香りのする新しい床を、兜はゴロゴロと音をたてて転がっていく。それを小次郎が懸命に追いかけていく。
「まずは緒戦の勝利おめでとうございます」
 これも侘しい木製の玉座に坐ったオーギュストに、ザウリが宮廷作法どおり頭を下げた。
「何もかも嫌味だな」
 オーギュスが苦笑すると、はっはっとザウリも笑った。
「確か敵を誘き寄せるために出陣されたはず。こんな大規模な戦いをなさるとは……呆れましたぞ」
 ザウリの言葉に、オーギュストはヤンを見た。
「兵法に『敵の防備に弱点を見出せば、必ず奇襲せよ』とあり、かつ、『敵の陣形が整う前に攻めよ』ともあります」
「よく勉強しているようだが、『蛮勇の将は必ず軽率に敵と戦う』という兵法を知らぬか?」
「……」
「まさに策士策に溺れる、の典型よ。『自国領では城を固めて敵の補給を絶つ』のが、兵法の常道。これに従って全将兵が動いているのに、勝手な振舞いは、必敗への一本道ぞ」
「……」
 ヤンが沈黙して眼を伏せる。
「まあ許せ。少し寝坊してな、敵中に孤立してしまったのだ」
 言葉のあとに、オーギュストは馬鹿笑いした。
「何れにしても、今後は守りに徹して頂く」
 きっぱりと迫る。
「分かっている。だが、これで敵の士気低下も早まるだろう」
 オーギュストの本心からすれば、この奇襲でザンデルスを討ち取って、早くセリアに戻りたかったろう。メルローズの問題が、ティルローズに露見する前に対応策を講じる必要があった。


 その夜、アルティガルド軍の軍議は、通夜のように静まり返っていた。
「如何に自国とはいえ、これほど地の利を得ていようとは、さすがディーンか。情報収集の正確さ、そして、判断の早さ、どれも侮れない」
 今更のように、ザンデルスが呟く。勿論、ヴァッケンローダーとボーデンシャッツ両中将の判断の鈍さと甘さを皮肉っての発言である。
 すぐに、お言葉ながら、とボーデンシャッツ中将が顔を向ける。だが、総参謀長のライムントが小刻みに首を振って止めた。
 この場にはすでに、
 第一軍エッフェンベルク中将、
 第二軍ヴァッケンローダー中将、
 第六軍クニーゼル少将、
 などの姿はない。
 空席が、言いようのない寂寥感を大きくして、出席者の心を貧しくしているようだった。
「しかし――」
 怒るザンデルスは諸将に嫌味を言い、諸将はそんなザンデルスを疑い、さらに強く反発するようになった。この切羽詰った感のある軍議を、ライムントは何とか打開しようと重い口を開いた。弟として、兄と諸将を繋ぐのが役目と自任しているためだろう。
 刹那、全視線が、出口を求めるように彼に注がれる。
「敵が陣城に篭もったと言うことは、敵の狙いが持久戦にあることは明白。それだけでも大きな前進であろう。なぜなら、もはや敵は、これまでのように神出鬼没と言う訳にはいかぬのだから」
 さらに、オーギュストが手の内は見せたからには、自ずと、こちらの打つ手も決まってくる、と言う。
 これに諸将が頷き、不健康な感情に歪んでいた顔を武人らしく引き締め直す。
「となれば、敵の策は、我らの疲れと欠乏を待って反撃に打って出る、というところでしょう」
 ボーデンシャッツ中将が発言し、ヴァッケンローダー中将がつなぐ。
「事実として、我が軍は、敵中深く侵攻し、補給路をたたれている」
 そして、ザンデルスが大きく床を蹴った。
「もはや猶予はない。兵糧も限られ、サイアを背にして戦わねばならぬ今、断固たる決意をもって、明日早朝より敵陣を攻め立てよ」


[二日目序盤]
 翌日、第二軍と第五軍が左右に並んで布陣した。
 この名もなき陣城は、所詮は急拵えの砦とも言えない品物である。城壁はなく土塁の上には木柵が立てられているだけで、門は櫓門ではなく木戸、物見櫓も見当たらない。
 そして、川を背にしている。背後に回り込まれない利点はあるが、逃げ道がなく、いざと言う時に懐深く戦う事もできない。さらに言えば、積極的に搦手から逆襲する手段も放棄しているのだ。これは攻め手にとって好都合であろう。守りを意識せずに攻めに専念できるからだ。
「まずは出丸を落とせ」
 攻撃側の必然として、外掘から突出した丸馬出しを第一攻撃目標とする。
 馬出とは、城の出入り口である虎口の前面に作られた小さな郭である。堀の外に出島のように突出し、特にその形が弧を描くものを丸馬出と呼ぶ。
 第五軍ボーデンシャッツ中将は、古風だが堂々たる陣立てで、軍勢を前進させる。その動きは理に適い、全くの無駄がない。
 一方、第二軍ヴァッケンローダー中将は、先に動かれた事に焦りを感じる事もなく、淡々と足の遅い重装歩兵を前に出して、攻撃に厚みを作ろうとしていた。これも十分に手厚い作戦の一つと言えよう。
 しかし、オーギュストはこの瞬間を見逃さない。
「左右の敵の動きに矛盾がある――」
 立ち上がって、鋭く言い放つ。
「左右で攻めの意識と守りの意識がちぐはぐに作用し、僅かずつだが全体の用兵に遅れが生じている」
 オーギュストは戦力を素早く一つ丸馬出に集中させる。そして、第五軍の先頭へ矢を瀑布の如く放った。
「遠慮は要らん。弓が火を噴くまで射まくれ!!」

 忽ち、先頭集団が削られていく。これに、ボーデンシャッツ中将は小さく舌打ちをした。
「固まっていては、的になる。広がれ」
そして、一点突破を諦め、密集隊形から横に広がっていく。
「敵の手薄な箇所を攻撃しろ」

 しかし、オーギュストもこれを予期していた。
「展開せよ」
 すぐに戦力を丸馬出から戻して、土塁の全域にずらりと延ばして、一部の隙も与えない。
 こうなっては脆くても陣の中に居る方が、野にあるより有利であろう。

 ディーン軍の集散の速さに、ボーデンシャッツ中将は舌を巻いた。
「後退せよ」
 そして、ここは無理をせず、第二軍の攻撃を待つことにした。

「カザルス、お前に聖騎士の矜持は残っているか?」
「戦いでご確認を」
「ならば行け!」
 オーギュストは、中護軍ゴーチエ・ド・カザルス広威将軍に果敢な追撃を命じた。丸馬出の両側面から、速やかに出陣すると、後退する第五軍を強襲した。

 思わぬ反撃を受け、ボーデンシャッツ中将は頭に熱い血が駆け登るのを感じる。
「出てくるなら本望。総攻撃せよ」
 反転して、猛然と攻め込んでいく。忽ち一蹴、退却するカザルス軍を、今度は逆追撃して丸馬出に殺到する。
 と、丸馬出しには先程のように、戦力が集中しており、猛烈な射撃を浴びせられた。
「何たる無様な……」
 ボーデンシャッツ中将は、この僅かな攻防で少なくない被害を出してしまい、思わず歯軋りした。

 そして、遅れていた第二軍がようやく攻撃を開始した。丸馬出は目障りだったが、第五軍の失敗を参考に、敢えてそこを無視して、直接外郭の土塁へ取り付いた。
 すると、左右の丸馬出と土塁の三方向から射撃を受ける形になった。さらに、丸馬出の反対側出口から打って出てきた軍勢に、側背を奇襲されて、陣形さえ維持することも困難となる。
「退けぇ、退けーーぇ」
 ヴァッケンローダー中将は退却を命じたが、敵陣前で局地的に包囲された状態から、退く事も至難であり、これまでよりも大きな損害を被りながら、どうにか元の位置へ逃げ帰った。


[二日目中盤]
「敵は疲れ、乱れておるぞ!」
 この間に、軍を再編成した第五軍が、再び前進する。
 丸馬出の外には部隊が残り、戦力も偏って、薄い箇所が生じている。
 この危機に、オーギュストは左護軍ロベール・デ・ルグランジェ虎威将軍に出陣を命じた。
「暴れて来い」
 エステバンは勇んで飛び出すと、突進する第五軍の側面を逆進した。そして、攻撃部隊の遥か後方で、戦いの意識が薄くなっていた第五軍司令部へ奇襲攻撃を加えた。
 これに第五軍は指揮系統が乱れた。司令部を守り戻ろうとする者、エステバンを追い払おうとする者、そのまま前進しようとする者、新たな命令があるまで待機する者、軍はばらばらになってしまった。必然、この動揺で攻撃の手が弛んでしまう。
 この時間稼ぎに、オーギュストは戦力を再編して、高密度の射撃で反撃した。これに、第五軍は一時的に錯乱状態に陥る。

「敵を休ませるな。攻撃の手を緩めるな!」
 第五軍を劣勢と見るや、ザンデルスは主力を前進させる。総力を挙げて、三つの丸馬出を攻め立てる。
 まさに死闘となった。
 数で勝るアルティガルド軍が、帯のように細長い土塁に押し寄せている。陣地の防御能力でどうにか互角に戦っているが、陣形が薄いために、一箇所でも破られれば、総崩れになりかねない。
 陣前の戦局は混沌として、一瞬の判断の遅れやミスが致命傷となりかねない難しい局面へと突入した。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ!」
 オーギュストは司令部を出て、最前線を走り回った。兵の配置を細かく出し、喉が枯れるまで叱咤激励を繰り返す。時には、破れそうな土塁に立ち、自ら弓や槍をふるって、防御ラインの維持に努めた。
「どけい! いま…お前達を相手している暇はない」


[二日目終盤]
 この頃、ライムントは下流の浅瀬に到達していた。陣城で烈しく戦い、オーギュストの意識を独占している間に、混成軍で迂回、渡河して、後方を脅かす作戦こそザンデルスの真の狙いであった。
「敵です」
「迎撃! 川の途中の味方を守れ」
 半ばが渡り終えた時、視界外から長駆して、騎兵が襲ってきた。ライムントは必死に上陸した部隊を率いて戦ったが、騎兵は各軍から選りすぐった精鋭であり、凄まじい波状攻撃を繰り返されて、ついに壊滅状態に至った。あとは川の中の兵が、いい的となって、渡河作戦は失敗に終わる。
「そうか……」
 オーギュストは顔を拭きながら、この報告を聞いた。
「逆に渡河して、敵の側背を脅かす事も出来ただろうが、無欲な連中だ」
 騎兵の指揮官達を、低い声で皮肉った。
「そうか……ライムントは死んだか……」
 一方、ザンデルスは一言も声を発することができなかった。今だ数では勝っているが、一日かけた総攻撃でも陣城の土塁を突破できず、迂回戦術も失敗してしまい、もはや打つ手を失っている。直に、将兵の士気も支持も失墜するだろう。
「もはや逆立ちしようが、勝利への道筋は見えない。私は死神に血の荒野と誘い込まれたのかもしれん……」
 ザンデルスは力なく、椅子に倒れ込むように坐り、か細い声で、総攻撃中止を告げた。


[二日目終局]
 戦いを終えて、オーギュストは感状を発した。まず敵の索敵網を狂わし、正確な情報をもたらした左軍師刀根留理子豹威将軍。次にオーギュストの作戦を忠実に実行した右軍師マルコス・サンス・デ・ザウリ威烈将軍を称えた。
「そろそろサイア城のカフカが、敵の背後に到着するだろう」
 美酒を飲みながら、オーギュストが囁く。
 カフカ・ガノブレード蒼威将軍の下には、
 リューフ・クワント飛将軍、
 パーシヴァル・ロックハート奮威将軍、
 ルカ・ベルティーニ宣威将軍、
 さらにゴーティエ・デ・ピカード鷹威将軍、ローゼンヴェルト威武将軍など錚々たる武将がいる。
 また、南のニブルヘルム侯国からは、峠を越えて、侯爵フリオ・デ・スピノザ輔国将軍が進軍してくる予定である。
 さらに、南西からは、公爵アレックス・フェリペ・デ・オルテガ鎮西将軍が、攻め上がって来る手筈になっていた。
 これこそ必勝の包囲網であり、もはや勝利は揺るぎないものと思えた。
「アルティガルド、お前達の敗因は、たった一つ……たった一つの単純な答えだ……俺がティルを怒らせた……」





続く


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