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g_03.gif エリーシア戦記

...Record Of Ariesia War...


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第45章 虚虚実実


【神聖紀1229年4月、トラブゾン】
 北の大地に、広大で肥沃な平野を作り出した大河トラペサ。その河口の三角州の上に繁栄する街トラブゾン。街中を何本も運河が走り、その淵を柳で飾られた美しい港町である。
 大柄の男が、両脇に艶やかな女性を従えて、うぃーん、うぃーん、と千鳥足で歩く。
「あの時もなぁ、アイツは迷って身動き取れなくなっていたんだ。そこで俺がだな、『迷わず進め!』と活を入れてやったわけよ」
 水商売風の女達が、「きゃきゃ」と、はしゃいだ声を出して、パチパチと手を叩いた。
「だから、あの勝利は俺のおかげよ。まあ言わせてもらうなら、アイツを育てたのは俺、のようなものだ」
「すっごーーい」
 女達の黄色声が、酔った頭脳に心地良く響く。
 その時、若い男がすっと柳の下から現われて、すれ違った後、ふわりと振り返った。
「マックスさんじゃありませんか?」
「うむ?」
 真っ赤な顔を若者に向ける。
「お前は……?」
「トラブゾン第二小隊のライルですよ」
「そうだ! その顔、ラルフ・ライルだ。お前、生きていたのか!」
 マックスは女どもを振り払って、この若者の両肩をがっちりと掴んだ。
「ええ、ブルサから何とか生きて戻れましたよ」
「そうか! よかった」
 思わず、涙ぐんでしまう。そして、遅まきながら、脚を確認するように軽く叩いた。
「ちょ、ちょっと。幽霊じゃないですよ」
「そうかそうか……」
「もう泣かないで下さいよ。あーあ、みっともないなぁ。鼻出ていますよ」
「ああ、分かってる。分かっているがよぉ。トラブゾン隊は玉砕したって噂だったからよぉ……よかったなぁほんとうに……ぐしゅ」
 だらだらと零れ落ちる鼻水を、袖で拭い、そして、思いっきり啜った。
「ええ、僕は運がよかった」
「そうか」
 マックスは太くて厚い掌で、顔を撫でるように拭うと、晴れやかな笑顔を戦友へ贈る。
「よし、飲み直そう。お前にはカードの負けが残っていたしな」
 マックスはきょろきょろと頭を振って、橋の向こう側に、まだ明かりある店を見つけた。
「あの店にしよう」
「申し訳ない。今夜は人と会う約束がある」
「そうか、残念だな」
「改めて連絡しますよ。ギュス君にもよろしく伝えてください」
「そうだな。ここは戦場じゃないんだ。焦る事はないな」
 そして、別れを惜しみながら、踵を返して数歩進んだところで、柳の枝が顔にぶつける。
「あいた」
 その時、マックスの灰色の頭脳に、セピア色の記憶が蘇った。
「そうだ。あの日だ……」
 トラブゾン隊が待ち伏せにあったと報せが入り、急遽援軍に駆け付けたが、部隊は全滅した後だった。
「そうだった……ギュスが長いこと心臓マッサージしていたけど、結局助からなかったんだ……俺が墓穴を掘ってやった……」
 青褪めた顔で振り返ったが、夜陰に、人の気配はない。
「じゃ、今のは……」
 吐いた息が、まだ冷たい闇を彷徨う。

 運河に架かった橋の傍に、居酒屋『バルト海』がある。薄暗い店内の片隅は、ガラの悪い若い男たちのたまり場となっていた。顔ぶれに多少の変化はあったが、毎夜、四、五つほどの馴染みが揃う。揃うと、とぐろを巻いて、時折無遠慮な笑い声と不健全な奇声を上げていた。
「あーあぁ、女を抱きてぇー」
「だな。腰がガタガタになるまで、とびっきりいい女をやりてーなぁ」
 話題はもっぱら女性である。
「昨日は惜しかったな」
「ああ、ええ尻の二人組みだった」
「軍資金が足りてりゃよー」
 若者達は鼻の孔を大きく広げて、ふーんふーんと荒い息を吐き出して、下世話な会話をしている。
「ふふ、金の問題じゃねえぜ」
 その時、なで肩のほっそりとした二枚目が、トイレから戻って来た。二枚目は、さっと袖を捲り上げて、ガラガラヘビの彫られた細く白い腕を小気味よく叩き、「腕が違う」とせせら笑うように言った。
「俺はお前らと違って、女には不自由していないぜ。追い払うのに苦労するぐらいさ」
「ガラガラヘビのドンファン。お前には聞いていなさ」
 隣の男が、やっかみ半分で、棘ある言い方をすると、タバコを灰皿に押し付けた。
 ドンファンはガラガラヘビの異名を持つ。彫物からではなく、女なら幼女から老婆までみさかいなく口説く、その生態から名付けられた。
 仲間達に、勝ち誇った視線を浴びせながら、ドンファンは調子よく仲間を押し退けて、ソファーの中央にどっかりと腰を下ろした。
「それよりもよお――」
 ふと思い出しように、仲間の一人が身を乗り出した。
「昨日の女はどうした? ぽっちゃりしてガードが固そうな娘さ」
「当然、いただいたよ」
 ドンファンは胸を張り、軽薄な笑みを浮かべて答えた。
「ムードのある店で軽く酒を飲ませて、ちょいと甘い言葉を耳元で囁いてやれば、ちょろりよ」
「おお!」
 若者たちが一斉にどよめく。それに、奥で働く店主が、厭な表情をした。
「で、そいつはどんな味だった?」
「器量はまあまあだが、思ったとおり生娘でよ。胸が白くて、むちむちっとしてたまらなかったぜ」
「ちくしょう。ドンファンばっかりずるいぜ。こっちにも回してくれよ」
 若者たちは悔しそうに身悶え、そして、じゃれ合う様に酒を煽った。それをゆっくり見渡した後、ドンファンは焦らすようにさらに言葉を続ける。
「しかし驚いたぜぇ。なんとあの娘、親衛隊だとさ」
「へーえ、こいつは驚いた」
 若者たちは顔を見合わせて、卑猥な笑みに好奇心を上乗せした。
「もっと詳しく話してくれよ。あの制服を着させたのか?」
「へへへ」
 ドンファンが立ち上がって、武勇伝を語ろうとした、その時、運命のドアが開かれた。
 入ってきたのは、身形のいい騎士衣装の男である。店内をぐるりと見渡すと、ドンファンたちに目を留めて、堂々とした足取りで近付いて来る。
「すまないが、ドンファン殿はおいでか?」
 若者たちは、しばし黙って見上げた。騎士に対する畏怖から、一瞬怯えた表情を見せていたが、その騎士の低姿勢に、舐めた感情を目に宿らせる。
「さあ、そんな奴いたかなぁ〜」
 虚勢を張った顔付きを並べて、からかうように笑い合った。
「ドンファン殿はおいでか?」
 騎士は、冷静にもう一度問う。
「俺だよ」
 ようやくドンファンが、指を立てて答える。
「そうか。五軒目で、見つかるとは、俺も運がいい。俺はスーザンの上司で――」
「おまちどおさま。ビールと餃子です」
 その時調度、奥から店員が料理を運んできた。
「――ってもんだ。昨日の事は全部聞かせてもらったよ」
 一斉に男たちは、ドンファンを見た。ドンファンの顔から血の気が消えている。
「ス、スーザンなんて俺は知らないぜ。人違いだ」
「まぁそう畏まらず。若い頃には、よくあることだ。俺も他人のことは言えた義理じゃねえ」
 騎士は一人愛想よく笑った。
「……」
「何でも、将来は将軍になりたいとか」
「そんなこと言ってねえぜ……」
 声が上擦ってしまう。
「おやおやご謙遜を。たいそう立派なビジョンをお持ちだとか。少しばかり、ご教授頂ければ幸いなのだが」
 次第に、慇懃無礼な態度が現われてきた。
「おい、兄さん。お前さんこそ、あんまり先走りし過ぎじゃねえか? いい加減にしないと怪我するぜ」
 見かねて、仲間の中で一番体格のいい男が、立ち上がった。そして、騎士になれなれしく話しかけながら、その襟を弄り始める。一斉に仲間達は、頓馬な騎士を、せせら笑った。
 その刹那、若者の手首を掴んで、その握力を奪うと、腰車にかけて、したたかに床に叩きつけた。
 そして、運命の第二幕が開ける。
「おお、開いてた、開いてた。さあ飲み直すぞ。オヤジ、ありったけの酒をもってこい。今日は義勇軍の英雄マックス様の貸し切りだァ」
 再び玄関のドアが開いて、大柄な男と二人の女性が入ってきて、先客を気にする様子もなく、自分勝手に騒ぎ出す。
「こんな夜更けまで何やってんだぁ?」
 騎士は、ゆっくりと振り返り、顔を顰めて、ため息混じりに言った。
「よお、ギュスじゃないか。お前も幽霊見て眠れないのか?」
「マックス……はぁ」
 深く、呆れた声を吐く。
「相変わらず、お前の頭は、異次元にあるようだな。お前は魔術通信の責任者だった筈だよな。ああ、俺が任命したのだから間違いない。だったら、遣る事いっぱいあるんじゃないのか?」
「そういう総帥様も、こんな時間まで、遊んでいらっしゃるようで」
 オーギュストは、すんなり表情を緩めて、頭をかき始めた。
「いやいや、お恥ずかしい。親衛隊にスーザンって子がいて、ちょっと晩熟だから心配していたんだけど、やっと惚れてくれる男ができたと、まぁ色々相談されたもんだから、ちょいと乗り出してきたわけよ」
 ここで、ドンファンを、気持ち悪いほど優しい眼差しで眺めてみせた。
「何でも天下統一の秘策を持っているらしいぜ」
「ほお」
 マックスは顎を撫でながら、まじまじとドンファンを見た。
「物好きだねぇ。これから大変だぞ。サリス第一皇女と辺境の暴れん坊将軍が、親代わりだから、浮気は命がけになる」
 憐れんだ表情をしているが、声には明らかな、からかいの色が含まれている。
「おいおい、俺はそんな親バカじゃないぜ」
「そいつはどうかな?」
 口を尖らせるオーギュストに、ニヤニヤと笑いかける。
「こいつは、勝つために手段を選ばないからなぁ、気を抜くんじゃないぞ」
 それから、親切にドンファンへ忠告してやった。
「そんなに恐がらせるもんじゃない」
 ふざける二人の傍らで、若者達は全員壁に張り付いている。背中で壁を登ろうとごそごそ尻を動かしていたが、如何せん重力の呪縛から逃れようがない。
「何だか、体が硬そうだぞ?」
「酢に三ヶ月ぐらい漬けていれば、柔らかくなるだろう」
「おいおい、それじゃ彼女が臭くてかわいそうだ」
「大丈夫だ。二年は猶予をもらった。その間に俺が一人前の兵士に育ててやる。それまで会わない約束だ。アルバトロス号名物『鮫の穴』を使うぞ」
「しょ、正気か? 一週間で喜怒哀楽を忘れてしまうと言う、あの伝説の猛特訓を、か? 危険過ぎる」
「ふふふ、老いたなマックス」
 その瞬間、ドンファンは窓から飛び出ていた。頭で考えたというより、生存本能が、体を突き動かしたようだった。
「冗談じゃね。軍なんて、結婚なんて地獄だ」
 しかし、闇夜を脱兎の如くかけるドンファンに、柳の枝が容赦なく襲い掛かる。そして、無残に絡め取られて、居酒屋の玄関前まで引き戻された。
「安心しろ。三日で、地獄が生ぬるいことに気付く」
 居酒屋の灯りを逆光にして、オーギュストの口が耳まで裂け上がっていた。

 これが嘘か真か『街道を行く〜トラブゾン編』の中に出てくる一節である。後に、柳は縁結びの名所となり観光客が後を絶たない。また、トラブゾン出身のガララ・ドンファン・ディーンという男は、愛妻との間に、十三人の子供を持ち、第十三代親衛隊隊長として名誉の戦死を遂げている。


 カイマルク州刺史カルテンボルン伯爵が、アポロガイストに暗殺されたのは、昨年の晩夏である。カイマルク都督シュナイダー将軍は、アポロガイストを追い詰めたが、パルディア王国領への逃亡を許してしまう。
 シュナイダーは、手勢の1万3千に加えて、さらに、スピノザやバラムなどの戦力を合わせて、およそ三万五千の軍勢を国境付近へ出陣させた。
 対して、パルディアの獅子王子ローテヴェイク将軍も、一万五千の軍勢で迎え撃つ。
 こうして、第三次トラブゾン会戦は始まった。
 この時期の北辺地域は、街道の整備が未完であり、河川沿いに線で結んだ場所しか支配が及んでいなかった。
 アルティガルドは、カイマルクからトラブゾンにかけての本流南岸をほぼ制圧していた。ただし、支流にあるハンナ(ディアン男爵家)、上流にあるゾーネブルグ(ロードレス神国)などはディーン軍勢力下にある。
 一方、北岸は、バラムとスピノザとで二分している。
 バラムの拠点が、ウラジオストク。
 一方、スピノザ家の拠点は、フェルディアから流れ出るフェイ川がトラペザ大河に合流する地点にあるゴーラク。ここを、フリオの後見人である、ヴィユヌーヴが実質仕切っていた。
 この夜、バラム公オットー4世が、オスカル・ド・ヴィユヌーヴを訪ねていた。
「義弟よ。よくきた」
「義兄も、元気そうで何より」
 彼らは、ウラジオストクの豪族の美姉妹を、それぞれ娶って、義兄弟の契りを結んでいた。
 ヴィユヌーヴは、ミカエラの従兄であり、共に一族内で、その才能を高く評価されていた。また二人も意識して競い合い、切磋琢磨した。
 現在では、オーギュスト麾下で、最も冷静な男と評されている。派手さよりも堅実さを重視して、戦場の勇者であるよりも、後方の良き治者であろうとしていた。
 しかし、これは彼の生来の性格ではない。若くして男爵家当主になって以来、自分に課した仮面である。不安定な時代に、如何に男爵家を継続させるか考え抜いた末の、覚悟の処世術である。しかし、封印した筈の強い自己顕示欲だったが、確かに瞳の奥で鈍く燻り続けている。
 一方、オットーは若いながら、果断に君主となった。しかしが、その未熟さゆえに、未だ国内を掌握し切れていない。
 二人は境遇の共通点から、強い親近感を抱いた。そして、自然な成り行きで、信頼関係を深めていく。勿論、北岸一帯を協調的に分割し、アルティガルドに対抗しようとする、政治的な思惑は存在してはいたが、友情に偽りはなった。
 ヴィユヌーヴは、オットーを自室に通した。暖炉の前に、コの字型に配されたソファーに座ると、セレーネ半島産のワインを飲み交わした。
「ローテヴェイクは、何故攻撃を始めない?」
 早速、顔を赤くしたオットーが問う。
 シュナイダーは、小川沿いに堅牢な長塁を構築して、長期戦の構えを見せている。そして、本国に対して、援軍を要請した。これに応じて、皇帝ヴィルヘルム1世は、大軍を整えて出陣する、と発表した。
 日を置けば、彼我の戦力差は拡大する。それが分かり切っているのに、ローテヴェイクは全く動く気配を見せない。
「彼なら、薄い陣形と連携の不十分さを看破して、一点突破を図るはずだ。いや、彼ならできるはずだ」
 若いオットーは、戦術を熱く語る。
「ローテヴェイクは待っているのだ――」
 対して、ヴィユヌーヴは、十分に喉を潤してから、答え始めた。
「皇帝が戦場に到着するのを。国力の差を考えれば、シュナイダー一人を打ち破ったぐらいでは、戦況は変わらない」
「なるほど。では、シュナイダーも皇帝の到着を待って、戦うつもりか?」
 それでは武人として消極過ぎる、とオットーは思う。
「シュナイダーは皇帝到着と同時に、ローテヴェイクを降服させようと考えている。皇帝は何より権威に拘っているから、良い演出になるだろう。そのために、ローテヴェイクをじりじり締め上げて、最後には篭城させるつもりだろう」
「なるほど」
 オットーは心から感心して、大きく何度も頷く。
 そのあどけない仕草を、グラス越しに眺めながら、ヴィユヌーヴは苦笑いした。
――ここまでなら分かるのだ……。
 だが、この状況下で、自分がどう動けばよいのかが分からない。何をやるにしても、余りにも自分の勢力は小さ過ぎる。
 群雄として独立を保てず、オーギュストの臣下に組み込まれた。そこでも、従妹のミカエラが先を走り、今では陪臣扱いである。
 一族の繁栄は名誉である。また、ミカエラの大胆さには感服するし、頑張っているフリオの力にもなってやりたい。しかし、どうにも、目の奥がちらちらと痛む。
「シュナイダーのおべっかはともかく、もはやアルティガルドの勝利は揺るがない。さて、その後の北辺はどうなるのだろうか……」
 グラスの中が氷だけとなった。口の中に苦さだけが残っている。
「恭順の意を貫くことだろう」
 ヴィユヌーヴは言いながら、ほんの一瞬舌打ちをする。そして、その音を隠すように、グラスを揺らして、氷を鳴らした。
「偉大なる公爵は、何を考えておられるのか?」
「あの方にとって大事なのは、ロードレスとフェルディアだけだ」
 その為なら、平気で小間使いもやる。圧倒的な自信があればこその余裕であろうか。尊敬に値するが、何故か親しみをもてない。
 余裕と言うならば、領地の分配も、極端であろう。広大な領土を惜しみもなく家臣へ与えて、ほとんど直轄地を持たない。あまりにも不足しているから、急遽フレイ郡の開発を始めた。
 見渡せば、陪臣ばかりというのは、どういう光景だろうか。その一方で、幼く未熟な親衛隊隊員を重用し、国姓のディーンを、まるで玩具のように軽々しく与えている。遊んでいるようにしか見ない。
――不安はないのか?
 ないから平気な顔をしている。すぐに答えを見出すと、腹の底で焼けるような感情が渦巻く。
「どうかしましたか?」
 オットーの声が遠い。
「いや。――だから、国内の統一を急ごうとしないことだ。ドラゴンを絞め殺した手が、お前の喉に伸びる事になる」
 オットーは首を竦めて、おどけてみせる。それから、酒を注ぎ、ゆっくりと一口飲み干すと、また問いかけた。
「では、皇帝はどう思っておられる?」
「皇帝の頭の中は、己の権威を高めることだけだ」
 こめかみ辺りを、指で突きながら言う。
「カリハバール戦線で、命を救ってくれた名将を、軽々しく処分して、小心者と侮られるなど、屈辱以外の何者でもなかろう。しかし、ベレンホルスト殿が生きていれば、北辺など放置して、遮二無二滅ぼしただろう。それが良いのか悪いのか、難しいところだ」
 薄く笑いを込めている。もし自分がそういう境遇にあったならば、どうしただろうか、と埒もないことを考えていた。くだらないと思いながらも、その瞬間、心が躍る。
 戦乱の時代で、オーギュストやローテヴェイク、シュナイダーなどと肩を並べて躍動する姿が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
「何やら楽しそうですね?」
「いや、何でもない」
 ヴィユヌーヴは気付かぬうちに、感情が露骨に零れていた事を知り、自分の軽率さを歯痒く思う。
「ただちょっと夢を、蝶になった夢を見ただけさ」
 自嘲気味に呟いて、グラスの中の氷から暖炉の炎へ視線を移した。
 二人はこの後も語り合い続け、朝を迎えた。
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【5月初旬、都督府】
 都督のシュナイダーは、本陣に、クラウス・フォン・アウツシュタイン大佐を呼び寄せた。
「戦局を少し動かしたい」
「はっ」
「貴様の連隊で、敵の退路を遮断しろ」
 二人の声が広い室内に反響する。
 空席の椅子が、劇場の客席のようにずらりと並び、舞台のように一段高い場所で、シュナイダーはアウツシュタインに、具体的な作戦を伝えていた。
 それを、シュナイダーの背後で、ルイーゼ・イェーガー中佐が見ていた。
――完璧だ!
 その配慮の行き届いた作戦案に、ルイーゼは改めて感心を深める。
 アウツシュタインの特性をよく理解し、最も長所が活かせるように、無理なく組み立てられている。明晰な分析力と、完成された判断力があればこそなせる業だ。
 ふいに視線を壁際に移した。そこには、オーギュストが脚組みをして座っている。
 都督顧問というのが、オーギュストの肩書きである。作戦について助言を与える役割なのだが、完全にシュナイダーが仕切る遠征軍の中では、単なる名誉職に過ぎない。
 ルイーゼは、どうだ、と挑発的に見遣る。
「……」
 それにオーギュストは無関心に視線を外した。
――何だ、こいつ……。
 思わず、ルイーゼは拍子抜けしてしまう。
 その時、シュナイダーがオーギュストへ顔を向けた。はっとするほど端正な顔立ちで、目には不敵な威圧感があった。
「公爵のお考えは?」
 この瞬間、言った者、言われた者より、傍で聞いているルイーゼが、最も緊張していたかもしれない。
 オーギュストは、長い時間続いた沈黙のために、小さく咳払いする。そして、丁寧な口調で話し出した。
「狙い所は素晴らしい。将来、王都テリム侵攻の足掛かりともなろう。たが、敵の哨戒網を通過せねばならず、困難が予想される」
 徐に立ち上がると、ゆっくりと地図へ近付く。
「都督殿は、本隊での牽制攻撃を仕掛けると申されたが、それだけでは、ローテヴェイクの目は騙せまい」
「では?」
 シュナイダーは気分を害した様子もなく、平然とした声で問う。
「近くのものを隠すには、遠くのものを見せればいい。山岳部に、獣道のような山道がある。我が軍勢が、そこを通って、ヘルディアへ向かう」
 オーギュストの提案に、シュナイダーは即座に首を横に振る。
「公爵ほどの方に、陽動を任せるわけには……」
「いや、アウツシュタイン大佐ほどの武将の助けになるのなら、これほどの名誉はない」
 オーギュストはシュナイダーを手で制して、アウツシュタインを横目で見て、言う。
「ご買い被りを」
 アウツシュタインは、抑揚なく答えて、じっと目を伏せた。

 軍議を終えて、オーギュストは長い廊下に出た。そこに、若い士官が待っていて、恭しく敬礼した。
「公爵閣下。ミル・ザマー中尉と申します。今回、連絡将校を任じられました」
「そうか。ごくろう」
「こちらです」
 簡単に挨拶を済ませて、ミルに案内されて、歩き出す。
 中庭に面した廊下を進んでいると、横から、子供達が駆け出てきた。遠征軍の慰安演奏のために訪れている、由緒あるオルレラン少年少女合唱団である。
 きゃっ、きゃっ、と騒ぎながら、駆けて行く。
「まるで猿だな。そのうちシャンデリアに戻り始めるぞ」
 仏頂面でオーギュストは言う。
 そこへ、「これこれ」と白髪の老人が追いかけてきた。
「静かにさせろ。ここは遊び場じゃないぞ」
 オーギュストは、コートの袖を掴み、老人を吊り上げて凄んだ。
 老人は縮み上がって、その場に腰から倒れこむ。
「大丈夫ですか? ロッシーニ先生」
 ミルが、すぐに二人の間に入って、老人に手をかした。老人は、著名な作曲家で、合唱団の指揮者でもある。ここでは賓客の一人であった。
「だから、軍人は嫌いなのだ」
 老人の罵声を気にする様子もなく、オーギュストは再び歩き始めた。
 車寄せに出ると、馬車が停まっている。
「天誅!」
 そこへいきなり護衛役の兵士が、斬り込んで来た。
「なっ」
 突然の出来事に、アルティガルドの将兵は、身動き一つできない。
「笑止!」
 オーギュストは、ニヤリと不敵に笑うと、隠し持っていた二本の短刀を抜く。そして、その短刀を眼前で、平行に左右から行き違いされた。
「八鷹血嘴!」
 両脚、両腕、両眼、そして首と腰の動きが、打ち手に、八つの剣の残像を与える。
 咄嗟に刺客は、剣を引き、左胸と首、顔を防御したが、がら空きの左肩を短刀が襲う。
 鋼鉄の肩当てを、難なく貫かれて、刺客は悶絶して崩れた。
 そして、倒れた刺客を、兵士たちが、取り押さえる。
「無駄だ。闇の精霊『シェイド』に蝕まれた。もう恐怖以外に何も感じまい」
 オーギュストが残酷に言い放った。

「あの技の切れ。間違いないな」
「はい」
 この一連の騒動を、シュナイダーとルイーゼは、カーテンの影に隠れて見ていた。
「ヘルディアに着くまで、決して監視を怠るな」
「はっ」
 ルイーゼは厳しい表情で頷く。


【ノノム村】
 音楽家ロッシーニは、子供達をホテルに宿泊させると、予めトラブゾン郊外の農村に借りていた、ヒマワリ畑の中の一軒家に入った。
 カーテンを閉め切った狭い部屋で、ベッドに、旅行鞄を投げ置くと、徐にポケットからメモを取り出す。
『無事終わりました。順調です。ヘルディア侵攻も、簡単に許されました。後は、あの手で監視役を誤魔化します』
 小さく口の片端を上げて、洗面室へ向かう。そして、顔全体を手で覆うと、どろりと顔の表面が、泥のように崩れて流れ落ちていく。その跡に、赤い眼光の顔が現われた。
「結構伸びたな」
 オーギュストは、まだまだらに伸びた顎髭を擦った。

 オルレラン少年少女合唱団が、練習している教会に、ナーディア・ブーンが激励に訪ねていた。
 髪の毛をおさげにして、白いパンツに、ピンクとグレーのボーダー柄のカットソーを軽やかに着こなしている。何気ない服に思えるが、さりげなく金糸や銀糸が織り込まれていて、きらきらと絶妙なアクセントになっていた。
 彼女は合唱団のOGであり、そして、ブーン家は大出資者でもある。初夏休みを利用して、合唱団の陣中見舞いを兼ね、オーギュストに会おうと企んでいた。が、出陣したと聞いて、ついに帰国を決意。ロッシーニに別れの挨拶に来た。
 ちなみに長期休暇は、夏休みは7月8月9月、秋休みが11月の前半、冬休みが12月1月、春休みが3月となっている。
「かくて陽は沈み、一将功ならずして、万骨枯る、か……」
 老将の言葉を借りて、気持ちを表す。


 凶運が、口笛吹きながら近付いている時、オーギュストはまだ何も知らず、ピアノの前に座していた。
 やや俯いた姿勢のままピクリとも動かず、深い思考に耽っている。
 シュナイダーは、ヘルディアに俺を封じ込めるつもりでいる。これがオーギュストの出した結論である。
 表面的な作戦は、ローテヴェイクの後方を遮断し、前方から圧力をかけて、巧みに『ヘルト要塞』へと追い込んでいく、と言うものであった。
 ヘルト要塞は、国境付近では最も規模の大きな要塞で、湾岸街道から北に少し外れている。
 パルディアへ攻め込む勢力は、後背を撹乱される危険性から、ここを無視することはできない。しかしながら、要塞は、背後を森林に囲まれて堅く、近くをヘルディア街道が通ることから、ヘルディアを後詰とすることができ、長期篭城も可能だった。
 オーギュストが、山道を通って、ヘルディアを攻略した場合、ヘクト要塞を完全に孤立させる事ができ、搦め手からの攻撃で、落城に大きく貢献できるだろう。
 ただし、シュナイダーには、要塞を攻撃せずに持久戦にする選択肢が残っている。つまり、十分な戦力を抑えに残し、主力で王都テリムを直撃するのだ。こうなれば、ディーン軍は、ローテヴェイクに蓋をされた事になり、主戦場に参加できない。
「ローテヴェイクの性格ならば、ヴィルヘルムを見れば、形振りかまわず、突進するだろう」
 そうなると、まず考えられるのは、すでにパルディア王ヴィレム3世とアルティガルドの間に、密約が結ばれている可能性である。
「だとすれば、ローテヴェイクは人身御供で、俺はピエロだな」
 しかし、恥をかかせるためだけに、こんな手の込んだ事をするとは考え難い。
「俺を閉じ込めて、さらに大掛かりな仕掛けを用意している、と言うことだろう」
 鍵盤に向かって、独り囁く。
 この疑惑を解決するために、オーギュストは行動の自由を得た。まずキーラを影武者とし、合唱団を隠れ蓑にして、音楽家ロッシーニに化けた。
「さて、世界最高峰の頭脳集団が相手だ。策に溺れているのは、はたしてどちらか」
 オーギュストは白い歯を見せた。微熱のような緊迫感が、心に張りを作る。
「こんにちわーぁ。ロッシーニ先生、いらっしゃいますぅ?」
 思考を中断させる声が、窓から聞こえてくる。イラつく、甘さを主成分とした声である。
「先生なら、散歩ですよ」
「あなたは?」
「ピアノの調律師ですよーぉ」
 平然と嘘を告げる。しかし、しばらく経っても、窓から人の気配は消えない。忌々しげに顔を歪めて、振り返ると、縦長のケースメント窓の隙間に、ぽっかりとナーディアの顔が挟まっている。
「ええーーっ!?」
 ナーディアの素頓狂な声が、重苦しい沈黙が支配している部屋中に響き渡った。
 硬直してしまったオーギュストをよそに、ナーディは、どたばたと物を蹴飛ばす音を鳴らしながら、慌ただしく玄関から駆け込んできた。
「どうして? どうして?」
 矢継ぎ早に、甲走った声で詰問する。
「……いや。暇だから」
 咄嗟に無意味な言い訳をした。
 全くの油断だった。顔見知りが少ない辺境であり、書生のふりでもしていれば安全だと気楽に考えていた。
 否、今この瞬間を迎えてみれば、ただ面倒だったのだろう。一切の煩わしさから解放されて、ただ一心に思考したかったのだ。
「暇って……」
 言われたナーディアも戸惑っている。どうしていいのか分からず、入り口に立ち尽くして、何度も「え?」と繰り返し呟き、左右に首を傾げている。
 その時、外からまた声がした。
「先生、ご在宅ですか?」
 玄関を映す鏡に、憲兵の制服が垣間見えた。
 その瞬間に弾かれたように動き出し、オーギュストは、ナーディアの背後に回り込むと、その口を塞ぎ、そして、ドアの陰に隠れる。
「返事ないようですね」
「おかしいね」
 憲兵は振り返って、家主の婦人を見た。
 陰では、オーギュストが、音叉をそっと構えている。
 憲兵は若い。まだ新兵だろうか……。
 しかし、殺すしかない。あと数日、シュナイダーが、トラブゾンから十分に離れるまで、じっと潜伏していたかった。
 音叉を壁に軽く当てると、反響した音が、小さな波紋のような形として視覚化された。それが扇形の中で漂い溜まり、徐々に濃くなっていく。
「ああ、そう言えば、さっき頭の軽そうなお嬢さんが訪ねて来たようだったから、もしかしたら、お二人で散歩かも」
「そうですか。じゃ、くれぐれも夜盗に気をつけるように伝えて下さい」
「はい」
 会話が終わると、憲兵と婦人は小道を帰っていく。
 オーギュストは張り詰めた息を吐きながら、音叉を降ろすと、同時に、ナーディアの拘束を解く。
 腰がふらついた。全く膝に力が入らない。まるで生まれたばかりの小鹿のようである。
 ナーディは瞳に涙を浮かべ、鼻の頭を真赤にして、顔全体をぐしゃぐしゃに崩しながら泣いていた。
 接している背中が、ゾッとするほどに冷たい。それは到底人の肌とは思えなかった。まさに生命の危機、死の恐怖という感触であった。
「大丈夫か?」
 体中の震えをどうする事もできない。返事をしたいのだが、言葉を紡ぐはずの口は、歯と歯がガタガタとぶつかり合う音しか鳴らない。
 混乱する頭で、ナーディアは、「こんな経験は、あぜ道で蛇と遭遇した時以来だ」と思う。
「すまなかった」
 オーギュストの声が、空虚な心に染み渡る。そして、オーギュストの笑顔が、熱い安心感がこみ上げさせて、ようやく、小さく頷く事ができた。
 その途端に、下半身が、ショーツの中が、生温かく感じられる。
「ひぃ……」
 さっと青褪める。「そんな筈は」と心で否定するが、とどめと、太ももを冷たい感触が流れ落ちていく。
「い、いやぁ、見ないでぇー」
 そして、思わずオーギュストは、震える唇を奪っていた。羞恥に凍えるナーディアを初めて女として見た。
――行きがけの駄賃に、青い性に溺れるのも悪くない!


 フリオは、出陣するヴィユヌーヴを見送るために、馬を並べて進んでいた。
「申し訳ない。本来なら僕が先陣を勤めるべきなのに……」
「スピノザ家当主が何を言う。でんとしていればいいのだ」
「はい」
 俯くフリオの肩を、ヴィユヌーヴは優しく叩いた。
「しかし、何故突然トラブゾンなのかなぁ……」
 突然、オーギュストの命令書が届き、フリオは海軍と合流せよ、と指示してあった。
「補給の見直しだろう」
 ヴィユヌーヴが言う。
 ヘルディアへの出兵は、スピノザ勢、デルロース勢、そして、フェルディア勢で構成させている。これをオーギュスト自ら指揮して、ヴィユヌーヴは実質ナンバー2として、参謀の役割を務め事になっていた。
 ヴィユヌーヴは自然と高揚している。だからか、フリオには、日頃よりも逞しく感じられた。それに甘えるように、フリオは気持ちを露にしていく。
「最近、タウベ夫人(第38章参照)から連絡がない……」
「カイマルクも混乱しているだろう」
 表面上慰めるが、すぐに戒めが飛ぶ。
「いつまでも、未亡人に現を抜かしていると、鼎の軽重を問われるぞ」
 どんなに恋焦がれても、怪しげな平民の未亡人と結婚できるわけがない。フリオは、貴族の令嬢と政略結婚するべきである。それが、スピノザ侯爵家当主の務めである、とヴィユヌーヴは信じて疑わない。
「……」
 フリオは、締め付けられるような胸の痛みに、唇を噛み締めた。
「傷の浅いうちに、諦めろ。これはお前のために言っている」
「分かっています……」
「そう言えば、トラブゾンで幼馴染と落ち合うのだろ?」
「ええ」
「ブーン家の令嬢ならば、側室に申し分ないぞ。口説いてはどうだ?」
「バカ言わないで」
 フリオは思わず吹き出した。
「まだほんのねんねですよ」
「そうか? 女の成長は早いぞ。では!」
 凛々しく敬礼して、数人の部下を引き連れて進路を変えた。
「ナーディアがねぇ。ありえない。アイツはどうせ叶わぬ恋に恋する乙女さ」
 優越的に、フリオはにやりと笑った。


 艶めかしい舌が、氷りついて紫色をした唇に、割り入っていく。
 恐怖に支配されたナーディアは拒むこともできない。ただオーギュストの胸の中で、身を竦ませて、石のように硬くしている。
 オーギュストは唇をつけたまま、髪を優しく撫でた。その手は、ナーディアの顔や頭の形を、まるで写し取ろうとしているようだった。
 耳をふわりと撫でられて、ナーディアは瞳を閉じた。そして、徐々に唇を開き、「はぁ」
と熱い吐息を吐く。
 舌が深く差し込まれる。舌が絡み取られて、吸い上げられた。
「ああ……ン」
 切なげに鼻を鳴らして、細く長い眉を八の字に開いた。
 あれほど硬かった身体に、もう力が一切入られない。腰に回された腕を支点にして、ぐらりと揺らぐように、後ろに仰け反っていく。
 ナーディアの後頭部をそっと支えて、オーギュストは濡れたショーツを、爪先で切り落とした。水溜りの中へと、シルクのショーツがぽとりと落ちた。
「いや……」
 気だるい唇が微かに動いた。
 濡れた肌の上を、新鮮な空気が吹き抜けていく。その感触は間違いなく現実である。だが、男の前で、股間を風が抜けていく状況は、夢の世界でしかありえない筈だった。
 ナーディアの理性が、現実と非現実の狭間で、蝶のように漂っている。
 オーギュストは、突き上げられた顎から、伸びた白い喉へと舌を移動させていく。
「はぁ……ああん」
 胸元を舐められた時、ビクっと肩が震えた。そして、全身がカーッと熱く火照り、その熱で頭がぼーっと霞んでいく。まるで宙に浮いたような気分であった。
 否、現実に彼女は宙を舞っていた。羽のようにやわらかく浮いて、静かにベッドに舞い降りていく。
 重力からの解放は、全てから自由になったようだった。一瞬自分が天使になったような気さえした。
 再び、オーギュストが視界を覆い、口付けをしてくる。
 ぐらりと全ての感覚が歪んだ。初めてのキスはフリオ(第31章参照)とした。ぬるりとした生暖かい感触。感動的であったようで、一方で、こんなものか、という冷めた思いがした。そのフリオは、他の女とセックス(第34章参照)をしていた。「フリオのくせに生意気!」と激怒したが、周りを見れば、同級生達もとっくに先に進んでいた。焦る想いが、あんな恥ずかしい結果(第41章参照)に繋がってしまった。
 しかし、このキスは違う。ディープキスが、こんなにもいやらしいなんて、とても思いもしなかった。
 喉へと流し込まれる唾液、その香りが肺を満たす。それだけで、全身に蕩けるような高揚感で溢れていく。
「こんなの初めて……」
 そう呟いた瞬間に、『違う』と警鐘が高らかに鳴った。
 この味を知っている……。
 何処で?
 夢の中だ!
 確かに、毎晩のように夢に出てくる味と香りである。
 瞬間、稲妻が一筋、頭の頂点から足先まで駆け抜けた。
 これは運命なのだ!
 全てが女神エリースの導きによる予知夢だったのだ、と確信的に思う。
 肌蹴た服から、控え目で硬そうな膨らみが零れ出ている。その先端には、ピンク色の小さな乳首が、弾けんばかりに硬く尖っている。
 オーギュストが口に含む。
「ひぃ!」
 すぐに、華奢な身体が、鮎のように跳ねた。
 オーギュストはその反応を無理に押さえ込もうとせず、バタつくナーディアの肢体を、自然に受け流してしまう。
 ナーディアは、まるで自分のベッドの中で、気兼ねなく寝返りを打っているような感覚である。
 その間に、乳ぶさを揉み、腕から手先へ、腰から脚へと撫で巡っていく。全身の性感帯を覚醒されようとしていた。
 次第に、ナーディアは全身に見えない快楽のオーラをまとっているような気がした。
 それに包まれているだけで、逆上せるような甘い感覚に酔い痴れていく。
――ああ、これいい。今度真似しよう……。
 自慰で慣れているつもりだったが、その手付きのやわらかさに、「これが本物のセックスかぁ」と変に感心してしまう。そして、もっと凄いテクニックを、さらに高い快楽を体験させて欲しい、と切なげに望んだ。
「ううっ……!」
 たまらず、荒い喘ぎを洩らす。
 オーギュストの手が下腹部を滑る。繊細な恥毛に触れた時、ナーディアが両脚を捩り重ねて、固く脚を閉じてしまった。
「はじめて?」
 顔を隠したまま、小さく頷く。
「大丈夫。慣れてるから、怖くないよ」
 オーギュストが優しく語り掛けると、ナーディアが大きな瞳を閉じた。
 ナーディアの脚を持ち上げる。と、太腿の内側が痙攣していた。
「あんっ……そんな……き、汚い……」
 舌が、割れ目に入っていく。新鮮な薄桃色の粘膜を抉るように、肉の豆へ向かって一舐めした。
「ああっ、はぁあん」
 ナーディアは腰をうねらせて、すぐに切迫した声を発した。指などとは、比べ物にならない快感がせり上がってくる。
 忽ち、秘裂に蜜液が溢れ出た。その淫景と淫臭が、オーギュストの鼻を刺激する。処女独特の甘酸っぱさが、鼻腔いっぱいに充満して、オスの欲情を昂ぶらせる。
 舌を差し込み、ズ、ズズ、ズーッと舐め啜った。
「へ、変になっちゃう……あんぅううう……」
 右手の人差し指を軽く曲げ噛み、ナーディアは一心に悶えた。快楽の上に快楽が積み上がっていく。自分が何処か知らない場所へ飛び立つようで、ひたすら恐懼した。
 逃げ出そうとする腰を手で押さえ込んで、オーギュストは容赦なく舌先で愛撫し続ける。
 それに、ナーディアは一度目の気をやった。
「ひゃぁぁぁっ!!」
 瞳は自我を失って、蕩けた。呆けた口からはだらしなく涎が零れ出ている。身体はブリッチのように反り返って、痙攣する股間から、これまでになく激しく滴を垂れ落とした。
 オーギュストは、噴水に蓋をするように、勢い両足の間に腰を入れていく。
「怖い……」
 限界まで固くなった肉棒を秘唇に感じて、蕩けた瞳に、再び緊張が走る。
「うッ…い、痛いッ!!」
 身体の芯を突き抜ける激痛に、苦悶の表情を浮かべて、両手を強く握り締める。
 窮屈な膣穴を抉じ開ける肉棒に、処女幕の抵抗があった。身震いするような感動と興奮の中、オーギュストはゆっくりと腰を進めていく。
「ひぃいい!!」
 ぷつん、という音が鳴ったような気がした。その瞬間、悲痛な叫び声が、狭い室内に反響する。
 後の事を、ナーディアはよく覚えていない。頬を伝う涙の跡、きつく結んだ唇に歯の形が、その行いの名残となった。
「出すぞ」
 オーギュストはナーディアを気遣って、早目に終わらせる。肉棒を引き抜き、ナーディアの腹の上に精液を放った。

 真昼の眩い光が、乳白色のお湯に反射している。
 オーギュストとナーディアは、その光る水面に、胸まで浸かっている。
「すごく感じやすいね?」
 後ろから抱きしめているオーギュストが、耳元で囁く。
「そうですか。よく分かりません」
 照れ隠しに、前髪を弄りながら答える。本当は、毎日オナニーしているからだろう、と見当をつけている。
「お願いがあるんですけど?」
「何?」
「あたしの肖像画を描いて欲しいんです」
 思い浮かべているのは、ミカエラの絵である。
「今大作に取り掛かっているからなぁ」
 オーギュストは気のない返事をする。
「そんな!」
 餌を求める小鳥のように、口を尖らかす。
「そうだ。オペラを書いてあげるよ」
「ホントに!?」
「ああ」
 ナーディアは「嬉しい」と囁くと、首を回して、口付けを捧げる。それから、「お礼」と言って、股間の間に両手を沈めて、男根を握り締めた。
 オーギュストは相好を崩す。
「そのためにも、もっと君のことを知らなくちゃ」
 言うと、脇の下を通して、胸の前でクロスさせていた手を動かして、両乳首を摘んでいじる。
「ああン」
 すぐに、顔が艶やかに火照る。

 風に靡く白いカーテンが、夕日を浴びて、オレンジ色に染まっていた。
 風呂を出てから、二人はソファーで対面座位に繋がりながら、軍事用携帯食(乾パンみたいな物)をかじり合った。
 棒状で、その端を互いに咥える。少しずつ食べて、最後は二種類の唾液で溶かし合い、二枚の舌で転がし合い、二等分して、それぞれの喉へと別れていく。
 その下半身では、凹凸が、がっぷりと交合して、粘膜と粘膜が情熱的にせめぎ合っていた。
 ナーディアは自分で膝の上に跨り、隆々と聳え立つ男根に手を添えて、腰を下ろした。
 その圧倒的な存在感に、恥ずかしくも固唾を呑んだ。それが与えてくれるであろう、快楽を想像しただけで胸が高鳴った。そして、半分ほど咥え込んで、「あぐう」と獣のように喘いだ。もう限界まで、膣穴が広がっているのだ。これ以上挿入してしまうと、身体が裂けるようで、内臓まで貫かれるようで、否、そんなことよりも、自分が自分でなくなるようで怖ろしかった。
 オーギュストは、ずんずんとナーディアの身体を上下に揺さぶって、じわりじわりと膣壷へ男根を捻り込んでいく。
 ナーディアの濡れ易い(ニャッハのせい)膣穴に男根が突き刺さる、ぐちゃぐちゃという淫靡な音が室内に響き渡った。
「あぅうううん」
 掘り進められるたびに、頭に、ちかちかと火花が散った。そして、乙女らしからぬ、うなり声を上げて、セックスでの最初の絶頂を迎え入れた。

 何が見える?
――いやらしい……。
 鏡のように磨き上げられた机。その上に、裸で蹲踞の姿勢をする女。何もしていないと言うのに、秘唇から、だらだらと滴を零して、鏡面に薄く丸い水の幕を作っている。
 知っている人?
――全然知らない……。
 初めて見る人間だった。こんな娼婦のような知り合いはいない。私は何不自由ない上流階級のお嬢様なのだから。
 貴女に似ていない?
――そんなことない……。
 ある筈がない。自分は健康的な乙女で、敬虔なエリースの僕なのだから。
 でも、よく見てごらん?
――ああ、ホントだ……。
 淫蕩に耽った、ふしだらな表情で、まるで発情したメス犬のよう。
 そんなにエッチが好きなの?
――ハイ、気持ちイイことがしたいの……。
 私は好色で、セックスの虜。快楽のために生きていて、男を挑発するために、わざと露出して、尻を振って歩く、スケベな女。
 今までの貴女と今の貴女、どっち本当の貴女?
――今の自分が本当の自分……。
 破廉恥で、浅ましいことが大好き。
 鈍い月明かりが、ベッドのシーツを銀色に輝かせている。
 ナーディアは、浅い眠りが目覚めると、ベッドの上で正常位に交わっていた。
「まずは朝までに正常位を覚えろ」
「うん」
 虚ろに頷く。
「そしたら、明日は後背位を教えてやる」
「うん」
 無垢に微笑む。
 蛙のように脚を広げていた。膣穴にはもう三度も射精を浴びている。絶頂は数えるのもバカらしいほど与えられた。次第に、楽な姿勢を知り始めた。気持ちのよい角度を分かり始めた。もう圧し掛かる男の体重にも慣れていく。そのうち、オーギュストの腰の振りに合わせて、尻を動かす事もできるようになるだろう。
「ああ、いい、……イクぅ」
 ナーディアは極彩色のまどろみの中で、更新された最高度の絶頂の喜悦を、かわいらしい声で囀った。


【五月中旬、都督府】
 夕刻、国境線から密かにパルディア領奥深くへ侵入していた、アウツシュタイン大佐から、「砦を占拠した」と報告が入った。
「シュナイダー将軍の作戦は完璧だ」
 トラブゾンの都督府で、後方司令官として残っていた、ルイーゼ・イェーガー中佐は、ひとり悦に入っている。

 この時、ローテヴェイクは、全軍を一箇所に集めて、決戦を挑む姿勢を示していた。故に、後方の中継拠点が手薄になり、アウツシュタインの連隊(約2000)は、易々と侵入できた。
 これによって、前線のローテヴェイクの兵站は断たれた事になる。
 もし慎重な武将であれば、ここで、一旦篭城策を選択するかもしれない。或いは、兵力の温存のために退却を選ぶかもしれない。
 だが、ローテヴェイクは戦場の猛者である。当然、援軍を派遣して、兵站の回復を図った。それも、全軍の半数以上を投入した。およそ8千を、である。
 4倍の敵に囲まれて、逆にアウツシュタインは境地に追い込まれた。
 迷わず、シュナイダーは主力を率いて、アウツシュタイン救出に出陣する。
 いよいよ決戦か、と両軍の兵士は色めきたった。しかし、ローテヴェイクはアルティガルドの偵察部隊を発見すると、素早く軍勢を翻して、東へと進撃を開始する。
 また、シュナイダーもローテヴェイクの動きを逸早く察知すると、急転して、元の長塁に一歩早く帰還した。
 最接近する両軍。一触即発の緊張感が漂った。だが、ローテヴェイクは、あっさりと突撃を中止して、軍勢を下げた。
「俺では役不足らしい……」
 シュナイダーは低く独語する。
 ローテヴェイクは、例え退路が断たれようとも、四方を包囲されようとも、果敢に前進して、皇帝ヴィルヘルムを討ち果たすつもりでいた。だが、眼前に現われたのは、疾風の如き速さで廻り込んだシュナイダーである。
「獅子は野ネズミ程度で満足しまい」
 血肉踊る祭りを思い描き、目の前の現実に、気力が萎えてしまったのだろう。こう言い残して、元の陣地まで戻った。
 こうして、また戦局は膠着した。

 ルイーゼは、黒板に新たな書き込みを加えて、地図にメモを貼った。
 深夜になっても、刻一刻と集まってくる情報を整理している。戦いの成否は、玉石混淆の中から、信憑性の高いものを選び出せるかにかかっている。
 瓜実顔で、瞳がゾッとするほど涼やかだ。逆に、紅唇はぽってりと肉感があり、情感的である。冷徹と情熱、一つの顔の中に、相反する要素が共存している。そのアンバランスさが彼女の特徴であった。
 赤い髪は短く刈ってある。強い巻き癖を処理するためである。短髪の上には軍帽を被っている。帽子が大きく見えるのは、顔が極めて小さいからであろう。
「これを通信室へ?」
 部下を顧みたが、書類の山の中に頭を埋めて、熟睡している。
「……」
 氷点下と評される、きりっと締まった顔立ちをよりいっそう厳しくした。彼女は妥協を許さないことで、部下から恐れられている。
 だが、彼女も疲れの極致にあった。馬鹿な部下に、貴重な時間を浪費したくない。
 ルイーゼは、無言で寝ている部下を蹴り倒すと、独り通信室へと向かった。
 ドアノブに手をかけようとした時、室内で機械が動く気配がした。この時間は、誰も入室を許可されていない。咄嗟に壁に背をつけ、様子を窺った。
 ガラス越しに見える室内は暗い。窓のカーテンは閉められ、僅かな隙間から、月の明かりが仄かに差し込んでいる。
 ルイーゼは、携帯しているダガーを抜く。そして、ドアを静かに開いて、肩からすべり込むように侵入した。
 だが、誰もない。無人で通信機だけが作動していた。
 消し忘れか、と思い、慎重に歩を進めて、通信機のスイッチへ手をやった。
 「ん?」
 暗号表の上に、音叉がある。こんな所に、通常ある物ではない。神経が音叉に集中した一瞬、不意に顔を布で塞がれた。
「んむぅっ!」
 甘い芳香が鼻腔を通る。
 彼女は知らないが、布には、フェルディアの『契りの儀式』(第37章参照)で使用される蜜のエキスが、たっぷりと染み込ませてあった。エキスは神経中枢を麻痺され、催幻覚性を与える効果があった。
 ――しまった!
 毒と思い、慌てて呼吸を止めたが、相当量を肺に吸い込んでしまった。
 激しく咽りながらも、ルイーゼは背後に向かって、ダガーを衝いた。だが、何の手応えもなく、逆にバランスを崩して、床に倒れ込んでしまう。
「ううッ」
 黒い軍靴が見えた。下士官の備品だ。
――ふざけやがって!
 顔を見ようと上半身を起したが、そこに音叉が突きつけられた。静かに鳴る音叉。途端に、視界がぐわんと歪んでいく。
――三半規管が狂う……!
 ルイーゼは必死に起き上がろうとする。しかし、意思とは裏腹に、肢体の感覚は薄くなって、思うように手足を動かす事ができない。
「こ、殺せ!」
 呪いの言葉を吐いた。敵に殺意がなく、生け捕りにしようとしているのは明らかだ。
 生き恥を晒すぐらいなら、このまま死んだ方がマシである。だがすぐに、頭の芯が熱く火照り、何もかもがぼやけていく。
 ――あっ、くぅ……。
 平衡感覚を失っているルイーゼは、易々と抱き起こされ、上半身を机に覆い被せるように投げ出された。そして、両腕を背中に捻り上げられ、素早く手首に手錠をかけられてしまう。冷たく重い鉄の輪が、ルイーゼの自由を奪う。
 先程口を覆った布が、口に詰め込まれた。舌に、甘い蜂蜜の味を感じた。
 不意に、ルイーゼの首からスカーフが引き抜かれた。そして、布を吐き出せないように、そのスカーフで口を縛られる。
「ふッ……」
 微かに、ベルトバックルの外れる音が、スラックスがずり降ろされる音が、そして、ショーツを引き下げられる音が、悪夢のように連続して聞こえてくる。そして、それらの止めに、男のうす笑いが轟いた。
「うがぁ、うううぅ」
 殺してやる、殺してやると、何度も叫ぶが、どれ一つとして言葉にならない。ただ蜜と唾液の混じり合った涎が、口の周りに滲むばかりである。
 剥き出しになった尻に、蜜が滴り落とされた。どろどろと気持ちの悪い感触が、尻肉に広がる。
 何とか避けたいが、この躯体は、腰の振り方までも忘れてしまったらしい。
 蜜は割れ目を埋め尽くし、秘裂やアヌスにまで塗りたくられる。
「上の口は冷めているが、下の口は、随分熱いじゃないか?」
 男のなぶる声が聞こえる。
 それから、不意に尻肉を鷲掴みに固定されて、剛直した男根が、強引に突き入ってくる。
「ああああッ!!」
 目を限界まで見開き、腹の底から搾り出すような叫び声を上げた。
 体内へ侵入を果たした男根は、ごりごりと、その膣肉を抉りながら、子宮口まで到達する。腹を突き破らんとする衝撃に、背筋がえび反りになった。
「はあッ、ぐ、……う、うぅッ!」
 裂けるような痛みに、うめき声を上げる。
 男は、まるで手綱のようにルイーゼの腕を掴み、乗馬の如く激しく腰を振り立てる。荒々しく揺れる身体で、机が軋んだ。
 ハぅ…パン…ハぅ…パン……
 肉を叩く音とルイーゼのくぐもった息が、絶妙な呼吸で重なり、静寂の室内に薄気味悪く響き渡る。
――こ、殺してやる!
 胸の中で、マグマのように、怒り沸き上がる。生涯、この屈辱を忘れはしないだろう。必ず見つけ出して、最も残虐な方法で殺す、と心に固く誓った。
 ――くぅっ!
 しかし、男はそんなルイーゼを嘲笑う如く、シャツの裾を捲り上げる。
「うっ! あ、うッ!」
 白い胸が露になり、背後から伸びた掌で揉み解される。ルイーゼは髪を振り乱して、そして、瞳を透明な滴で縁取った。
 体が火照る。体の芯が、焼けつくようだ。
――ああああ……
 手が、美肌を撫でまわす。
 舌が、耳を舐める。
 指が、アヌスを弄る。
 そして、男根が膣穴の奥深くまで蹂躙する。
「ン! っ……あ、いや……ぁ」
 身体のあらゆる場所を触られ、穴という穴に異物を挿し入れられた。
――熱い……。
 これほど、自分を不思議に思った事はない。犯されて感じているのだ。愕然とする他ない。
……熱くて狂いそう……。
「ああ……ぁぁぁッ」
 舐められ、弄られ、貫かれる。ただそれだけと言うのに、すすり泣く声が、次第に甘ったるい音色を帯び始めている。
――ん……ああ、う……ぅぅぅぅ。
 心の声さえも、獣の咆哮に似てきた。肌は赤みを増し、玉のような小さな汗を浮かべて、蒸気さえも立ち上らせている。
「うぉおお……ん」
 突き上げられ、尻肉がたわむたびに喉を鳴らした。もし猿轡がなければ、立派なよがり声を発していた事だろう。
――こんな事があっていい筈がない。犯されている女が絶頂を迎えるなんて……。
 ルイーゼを裏切り続ける躯は、ついに、絶頂へと上り詰めていく。
「はぁ、あああぁ……ん!!」
 呼吸を途絶えさせて、喘いでいると、背後の男が腰をゆすりだした。疑うまでもなく、射精の気配である。
――ナカはいや!! お願い、助けてぇーー!!!
 絶叫しても、猿轡のせいで相手には決して届かない。絶望が心を蝕む。
 ルイーゼは、顔を真赤にして、泣きじゃくった。

 しばらく経ち、ようやく体が動かせるようになった。ルイーゼは上体を起こして、床に座る。手錠は何時の間にか外れていた。憲兵の備品に間違いない。
 毅然と涙を拭うと、口のスカーフを解き、布切れを吐き出す。そして、唯一痺れの残っている膣口を見た。
 光る異物があった。摘み出すと、一万Cz金貨だった。さらに、栓を失って、膣穴からどっと熱い精液が零れ出た。
 再びどっと涙が溢れてきた。
 強く唇を噛み締めて、もう一度、袖で涙を拭い、鼻を啜った。その表情には女の尊厳が蘇っている。
「殺す!」
 低く言い放つ。
 それから、力なく立ち上がり、通信機へと向かった。
「私だ」
 呼び出した相手は、オーギュストの監視役であるミルである。ディーン軍はヘルディアを攻略して、駐留している。
「ディーンは?」
「もう眠っておられます」
「確認しろ」
 ルイーゼには、確信があった。しかし、しばらくして、怒ったオーギュストの声がスピーカから轟き、思わず絶句してしまう。
「犯人はディーンではなかった……。では誰だ? 誰なんだ!」
 何とか誤魔化して、通信を切った。その後、激情に流されるまま、マイクを壁に投げつけていた。
 翌朝になって、憲兵の下士官が、死体で発見された。喉を二箇所衝かれていた。
「凶器はナンでしょう?」
 捜査を担当する憲兵が呟く。
「音叉だ」
「はぁ?」
 ルイーゼは無表情に呟くと、背を向けて、歩き出した。


【パルディア×トラブゾン境界付近】
 前哨戦では、ローテヴェイク軍の数を削る事はできなかった。兵たちの士気も依然として高い。
「陛下のご到着前に、もう少し条件を整える」
 シュナイダーは戦いを決意した。
 午前8時、長塁を出ると、右翼を前にした雁行の陣形で進撃する。
 本陣は後方の左翼に配して、ローテヴェイクの出方により、臨機応変に対処するつもりでいる。先読みに定評のあるシュナイダーらしい戦術であろう。
 数で劣るローテヴェイクは、長蛇の陣形で打って出た。自慢の騎兵を先頭に、本陣は中央やや後方に布陣した。
「一列に突撃して、中央突破を図ろうとしている」
 シュナイダーはそう読んだが、積極的に陣を動かして、中央を厚くする事はなかった。

 午前十時ごろ、両軍が激突する。仕掛けたのは、ローテヴェイクの方からだった。
「行け、先手必勝!」
 ローテヴェイクの怒号を背に、先鋒部隊(騎兵連隊)は、中央を衝くと見せかけて、鋭く斜めに進路を変え、シュナイダー軍の最右翼へ突進した。
「小癪な!」
 シュナイダー軍の最右翼は、バルトハウザー将軍の率いる最精鋭部隊(混成旅団)である。早速の出番に、すかさず血が沸いた。
「怯むな!」
「突破しろ!」
 似た者同士が指揮する両軍は、正面から激しくぶつかり合った。
45a.jpg

 午前11時、ローテヴェイク軍先鋒の第一撃は、防ぎ切れら、程なく引き始める。
 この時、ローテヴェイク軍は、偃月の陣に素早く変形している。
「深追いするな。反撃してくるぞ」
 シュナイダーは伝令を走らせて、厳命した。だが、バルトハウザーは甘い汁に誘われて、中途半端に前に出ている。止むを得ず、中央の一部隊(軽騎兵大隊)を割いて、支援させた。

 午前11時半、
「よし勝機だ!」
 その時、ローテヴェイク軍第二陣(歩兵大隊)が、中央へ躍り出た。局地的に、戦力で上回っている。ローテヴェイク軍の中央分断策は成功するように思えた。
 しかし、ここでもシュナイダーは動かない。これに幕僚たちが慌てた。
「もし敵に十分な戦車部隊があれば、後方から支援射撃を行いつつ、槍部隊を我が右翼へ突進させれば、バルトハウザーは瓦解するだろう。だが、敵に戦車はない。十分に持ち堪えられる」
 舌鋒鋭く部下を諭した。
 戦車には大型の弩が搭載されている。元々ロードレス神国との戦いのために、アルティガルドで開発されたものである。
 だが、幕僚たちの不安は消えない。
「ご不興を覚悟で申し上げます」
 再度、本陣から重装歩兵を派遣するように進言した。
「まあ見ていろ」
 シュナイダーは表情を変えずに答えた。

 正午、実戦は、幕僚たちの意図したような展開にはならなかった。
 ローテヴェイク軍は、中央を征圧して、その矛先をさらに右へ向けてくる。
「行け行け、敵は本陣ぞ!」
 ローテヴェイクが騎乗で吼えた。

「ローテヴェイクらしい戦法だ」
 シュナイダーが不適に笑った。
 本陣の前には、重装歩兵が一個旅団布陣している。さらに、本陣には騎兵連隊と戦車隊が温存されている。物理的に、槍隊だけでは攻め切れない。
「前進して、押し潰しましょう」
 幕僚が進言する。
 それにシュナイダーは手を振った。
「いや、本命はローテヴェイクだ。迂闊に陣形を崩すな」
 その言葉通り、ローテヴェイク自ら、後方に控えさせていた騎兵連隊を率いて、歩兵大隊の後方を大きく迂回して進撃する。
「進め! 軟弱な都の男など蹴散らせ!!」
 ローテヴェイクは直進せず、シュナイダー軍の左側面へ回り込もうとする。
「さて、敵の手の内は出尽くしたようだ」
 ここで、シュナイダーは冷静に、中央から右翼へ動かした軽騎兵大隊へ、伝令を送った。
「少数部隊に分かれて、敵の手薄な一角に、波状攻撃を仕掛けろ。突破する必要はない。防御陣に、傷をつけるだけでいい」

 午後一時半、ローテヴェイクの猛攻が始まった。
「迎撃せよ」
 シュナイダー軍の本陣から、騎兵が飛び出す。互いに鋒矢の陣形である。
 まず遠目から矢を射掛け合う。それを掻い潜り、さらに接近すると、弓を捨て、槍を構えて激突する。
「敵は最後の足掻きだ。押し捲れ!!」
 ローテヴェイクの声が縦横無尽に飛ぶ。
 すぐに両軍入り乱れて、もつれ合ったが、ローテヴェイク軍のまとまりは崩れず、次第にシュナイダー軍騎兵を蹴散らしていく。

 午後二時、ついに、ローテヴェイクは一角を突破して、シュナイダー軍の左翼側面を占拠した。
「取った!!」
「今だ。射よ」
 だが、その拠点を、予め弓隊が狙いを定めていた。シュナイダーは本陣を早々と中央方向へ移動させて、重装歩兵の陰に隠れてしまった。
 忽ち、矢の嵐が降り注ぐ。
 この密度の濃い攻撃に、立っている事すらままならない。さらに、反撃しようにも、ローテヴェルク軍騎兵は矢が尽き、人馬ともに疲労し切っている。
 ここで、ローテヴェイクは勝負に出る。
 敢えて、分厚い重装歩兵旅団に斬り込まず、一旦V字形に反転して、敵の眼前で、中央を制した歩兵と合流し、補給と再編を行いつつ、総攻撃を敢行しようとした。
 確かに危険はあるが、敵の喉元へ槍先を突きつけている。もし敵が防御陣を乱すようならば、その合間を縫って、単騎で斬り込むつもりでいる。
「戦いは気合だ!」
 さらに激しく部下を叱咤する。即座に、ローテヴェイクの鬼気迫る戦意が、指揮下の全員に乗り移っていく。
 しかし、シュナイダーはこれに一切手を出しせず、ついには、切札である筈の戦車隊に意外な指示を与えた。
「バルトハウザーの外側から回り込み、この突進を援護射撃せよ」

 午後三時、この時、ローテヴェイクの動きに、残っていた部隊が連動していれば、勝利はローテヴェイクのものだったろう。
 しかし、シュナイダーは、この一瞬を見逃さない。
「攻撃せよ!」
 予め軽騎兵にあやをつけさせていた箇所へ、バルトハウザーを突進させる。その頭上を、戦車隊から放たれた、大型の矢が飛び越えていく。
 瞬く間に、ローテヴェイク左翼陣は崩壊した。
 左翼陣形の不備と指揮系統の脆弱さを見抜き、そこへ用意周到に戦力を整えた、シュナイダーの力量であろう。
「……止むを得ん」
 戦力の半分を失い。士気の低下を感じ取ったローテヴェイクは、ヘルト要塞へ退却する事を告げた。
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 こうして、シュナイダー対ローテヴェイクの戦いは終わる。


【カイマルク州ジオ】
 カイマルクの外れに、宝石加工の街ジオがあった。その中心に位置する館に、工場から来た馬車が停まる。
 あまり小奇麗とも言えない手狭な部屋に、傷んだ家具が無理やり押し込まれている。急な引越しで、仕方なく、急場をしのいでいるという雰囲気である。
 窓際の白いベッドの中に、白髪の老婆がいた。髪はやや乱れ、着古した臙脂の服に、ささくれた毛糸の襟巻きを巻いている。
 隣には白衣を着た初老の男がいた。片肘の折れた肘掛け椅子に座って、老婆の脈をとっている。
「お婆さま、ただいま帰りました」
 そこへ、喪服姿の女性が帰宅した。
 丸みを帯びたサテン襟のジャケット、柔らかなシルエットのマーメイドスカート、そして、胸には黒薔薇のコサージュ、赤毛の髪はエレガントに結い整えている。
 ドアの前に立つ彼女を、老婆は吸い付くような眼差しで眺める。
「遅かったわね」
「申し訳ありません。こちらは?」
「見て分かりませんか。ドクターですよ。獣医に見えますか?」
「はじめまして。奥様」
 医者は立ち上がって、一礼する。
「たいへんよくして頂きました。お礼を」
「はい」
 澄ました返事をして、アポロニアは部屋を出た。それに医者が続く。
 医者を館に入れた祖母の行為を、軽率だと思う。祖父が生きていれば、こんな事は許さなかっただろう。
 しかし、あの何事にも我慢強い祖母が、医者に呼ばなくてはならなかった事情を思うと辛い。大恩ある祖母の苦しみを察する事ができなかった自分を恥じて、刹那、瞳を閉じた。
「お祖母様は、耳が悪いようですね」
 廊下を歩きながら、医者が言う。
「そうですか?」
 機嫌悪く聞き返した。
 医者だからと言って、易々と他人を信じるつもりはない。
「音叉を右耳に近づけても、反応がありませんでした」
「音叉?」
「これです」
 エントランスで、医者は音叉を掲げた。そして、音叉が、アポロニアの翡翠色の瞳に写ったのを確認すると、ゆっくりと窓へと導く。
「なっ!」
 その瞬間、アポロニアは絶句した。
「あれは、ソルトハーゲン……」
 ソルトハーゲンは、セブリ山脈北端の麓に位置し、標高500メートルにある要塞都市である。300年続く大司教領で、近くに大規模な岩塩坑があり、岩塩をフリーズ大河からエリース湖沿岸へ送り出してきた。その富で、ソルトハーゲン大聖堂は、大きく繁栄している。
 その大聖堂の辺りから、炎と煙が立ち上っている。
「何故……?」
「おお、これは凄い。アルティガルドの攻撃が始まったらしい」
「そんな筈はない……」
 言って、慌てて口を噤んだ。
「皇帝ヴィルヘルムは、ハライン大司教とその側近数人を、アポロガイストを匿った罪で捕らえるつもりでいたようだが、予想外に大聖堂側の抵抗も激しかったようだ。まぁ当然だろうな。300年の自治を甘く見るもんじゃない。読みが甘いんだよねぇ。あの坊ちゃんは」
 医者の片頬に笑みが浮かんだ。
 アルティガルドでは、この機に乗じて、反抗的なソルトハーゲン大司教領を屈服させようと考えていた。
「お前、何をした?」
 アポロニアが眼光鋭く睨む。
「俺はただ燃えやすいように、床に藁を敷いただけさ。他意はない。まぁちょいと燃え過ぎだね」
「誰だ? 答えろ」
 右手の指輪を突き出す。魔術の細工があり、一度だけ光線を放つ事ができる。
「そんな恐い顔をするなよ。そそるじゃないか」
 医者は両手を挙げて、へらへらと笑う。
「……」
 無言で、半身になる。こんなふざけた態度を取る男は一人しか知らない。
「あの坊やも、与えられた運命に従って、大人しく生きていれば、そこそこの幸せを与えてやったものを。でしゃばって、俺を出し抜こうなどと考えるから、稀代の悪名を被る事になった」
 邪な声色で語ると、今度はアポロニアを射るように見詰める。
「お前はどうする? 俺の膝元に屈すれば、望みを与えてやってもいいぞ」
「まるで神様気取りだな。偉大なる公爵様。だが生憎、欲しいものは自分の手で手に入れるのが、我が家の家訓でね。謹んでご辞退いたします」
「アハハハ」
 医者は腹の底から笑い出す。
「こいつはいい――」
 そして、徐にもう一度音叉を掲げた。
「また会おう」
 そう言って、音叉を指で叩く。凄まじい風がアポロニアを吹き抜ける。思わず、顔を庇った。その一瞬の間に、医者は消えていた。


【パルディア国境付近】
「こんにちは。お急ぎですか?」
「ああ、いや、別に急いでませんよ」
 海岸沿いの松林の小道で、西と東から歩いてきた二人の男が、異様な緊張感を滲ませて会話を始める。
「よし」
 それから割符を取り出し合い、合致すると、振り返り、互いの陣営に合図を送る。
 松の影から、武装した男たち現われた。
 一人は、アウツシュタイン大佐。
「よくお越しくださった」
 もう一人は、パルディア王ヴィレム3世である。
「役目大儀」
 ヴィレム3世が手袋を外すと、アウツシュタインは跪いて口付けした。
 そして、アウツシュタインは丸めた親書を差し出す。ヴィレム3世は、その封を切って、中身を確認する。
「間違いなく、本物だ」
「勿論です」
 ヴィレム3世は、背後に手を翳す。すぐに、一台の馬車が現われて、二人の傍らで停車した。
 降りてきたのは、濃紺のドレスをまとったヴァレリー王女である。腰がくびれて、胸を大きく開き、白いフリルで飾っている。上品な立ち振る舞いに、魅惑的な肉体が、不釣合いに見えた。
「娘を無事に届けて欲しい」
 その丁寧な口調に、父親としての愛情と苦悩が滲んでいた。その父王の思いを知ってか、王女は寂しげに俯いた。
「はい、命に代えまして」
 アウツシュタインは、礼を尽くして、深々と頭を下げた。親子の別れに心が痛む。しかし、皇帝に忠実な武人として、何時までもダラダラと感傷的になってはいられない。早速、条件を確認し始めた。
「それで、ローテヴェイク殿への停戦命令はいつ?」
「今すぐにでも」
 二人の真剣なやり取りが続いている最中、突然、空気を切り裂く音が轟いた。
 数人のパルディア騎士が、ヴィレム3世を取り囲んで盾になる。
 アウツシュタインも、一メートほど跳ねて、剣を握った。
 そして、二人が立っていた場所付近に、鏡のように光り輝く金属が落ちてきた。
「……音叉だと?」
 その場の全員が、訝しげに見遣る。到底危険な武器とは思えない。そんな固定概念を嘲笑うように、突然、キーンと甲高い音で鳴った。その音は、直接脳へ響いて、全員が頭を抑えて倒れてしまう。
「魔術だ……封印しろ」
 アウツシュタインが、苦しみながら叫ぶ。それに従軍魔術師が、音叉に札を貼り、ようやく音波は鎮まった。
 しかし、今度はヴィレム3世の悲鳴がこだました。
「ヴァレリーがいないぞ!?」
 両陣営が、きょろきょろと辺りを見渡し、一人が上空を指差した。
「あそこだ」
 巨大な風船が海へと移動している。その下には、シルクハットに夜会服姿で、片眼鏡をつけた男が、ヴァレリーを抱いて、ぶら下がっている。
「射よ!」
「馬鹿、姫に当たる」
 右往左往する騎士たち。何も出来ない彼らの眼前で、風船はゆっくりと海上の船に舞い降りていく。
「あははは、また会おう。ヴィレム陛下とアウツシュタイン君」
「おのれぇ、盗賊。逮捕だァ!!」
 ヴィレム3世は、松林を抜けて、砂浜を駆け、迷わず海へ飛び込もうとする。それを騎士たちが必死に止めた。
「離せ! 無礼者!!」
「お鎮まり下さい。陛下」
 主従のやり取りを横目に見て、
「すぐに、シュナイダー将軍に通報しろ」
 アウツシュタインは、冷静な声で部下に命じた。


 ヘルト要塞に、アポロガイストが訪ねて来た。
「シュナイダーが後退するぞ」
 開口一番、ローテヴェイクに告げる。
「何故だ? 奴は勝っている」
 ローテヴェイクが首を捻るのも当然だろう。
 ここで、アポロガイストは、とくとくと状況を説明し始める。
 アルティガルドの狙いは、世界の目がパルディアに注がれている間に、ソルトハーゲン大聖堂を征圧し、ヴィルヘルムの法皇(皇帝と法王を兼務)就任反対派の急先鋒であるハライン大司教を拘束する事にあった。これにより、北辺の精神的支柱を折り、さらに、悲願であった岩塩も直轄地とすることができる。
 同時に、外交政策を推し進め、パルディア王国の属国化を目指していた。ヴィレム3世は屈服して、娘を人質として差し出すことを確約した。
 パルディアが従属したならば、シュナイダーは軍を翻して、トラペサ北岸を征圧する。オーギュストはヘルディアに孤立している。その抑えには、ローテヴェイクが残っている。バラムのオットーを捕らえるなど雑作もないことだろう。あわよくば、トラペサ大河の上流ゾーネブルグも攻略したい、と目論んでいた。成功すれば、一気に北辺一帯を安定する事ができる。
「俺は木石か……」
 静かな声だったが、それだけに怒りが腹に溜まっている。
「だが、策は破れた」
 ハライン大司教は死に、ソルトハーゲン大聖堂は信者3000人とともに焼け落ちた。
 これに動顛、激怒した皇帝ヴィルヘルムは、これ以上の親征を止め、アルテブルグへと帰還した。
 また、パルディアとの同盟も失敗している。
 北辺地域に取り残されたシュナイダーは、地元豪族の離反を恐れて、速やかにカイマルクへの退却を決定した。
「おお、追撃戦だ!!」

「敵を振り切れません」
 シュナイダーに、士官が悲鳴のような報告する。
「焦るな。敵も限界だ。アルティガルド人の誇りを示せ」
 部下を叱咤激励して、何とか指揮系統の崩壊を防いでいた。
 ローテヴェイクの追撃は、迅速を究めていた。一時的には、追う側の先頭と逃げる側の後尾が、入れ違う場面も生じるほどだった。
 バルトハウザーが殿を務めたが、追っ手の騎兵は、その両脇を巧みに迂回して通り過ぎてしまう。ならばと、反転して、これらを背後から襲おうとすると、ローテヴェイク率いる主力歩兵から強襲されてしまう。
 辛うじて予定の渡瀬に到着した時には、意外な損害を被っていた。しかし、ここは幾筋も小川が流れて、乾いた場所は狭い。寡兵で大軍を防ぐのに適していた。
 しかし、パルディア騎兵は、小集団に分かれて、狭い陸地の淵を巧みに移動して包囲しようとする。
「侵入した敵は少数だ。各個撃破しろ」
 シュナイダーも迎撃部隊を繰り出して、連携を分断して、逆に包囲殲滅しようとする。
 しかし、突入すると、あっさりと敵は道を空けて逃げる。これに空回りしたのか、勢い余って、湿地帯に落ちてしまう部隊が続出してしまう。
「巧妙な!」
 敵の方が、地の利を知り尽くしている。
 そして、何の策も講じられず、シュナイダーは包囲されてしまった。
「何と無様だ」
 歯切りしたが、これ以上無駄に戦力を失うわけにも行かず、渡河を一旦中止して、全軍で反撃に出る事にした。
 狙うは、敵の頭である。シュナイダーは来た道へ顔を向けた。
「敵の司令部に攻撃を集中しろ」
 矢印のような鋒矢の陣形を組み、一点集中攻撃を図る。シュナイダーの計算され尽くした部隊運動で、一点に膨大な数の戦力を叩き付けた。
「ありったけの矢をぶつけろ。そして、敵が怯んだ隙に、急速反転するぞ」
 敵の一角が凹んでいく。
 ついに死地を抜け出せる、と思った瞬間、パルディア軍はまるで軟体動物のような動きを見せていく。
 突き破った筈の部隊が、左右に別れ、陸地ぎりぎりに薄く延び、絶えず側面攻撃を加えてくる。そして、進行方向逆の部隊が、シュナイダーの後背を襲う。さらに、まだ時間的余裕はあるが、遥か前方には、バルトハウザーを破ったローテヴェイクの歩兵が迫っていた。
「これでは元の木阿弥ではないか」
 全く信じられない状況であった。苦心した攻撃も何の意味もなかった。まさに敵の掌の上で転がされている気分である。
 だが、傷付けられたプライドに付き合っている暇はない。
「何としても生き延びなければ」
 シュナイダーは鬼の形相で剣を抜き、騎馬を翻した。
「最も手薄な一角を突き崩すのだ!」
 上流へ剣を指す。
 再び、突撃する。もはや理屈ではない。動ける者、戦える者を先頭に、我武者羅に突進する。
 この猛攻に、血路が開けた、と思った。
 しかし、進撃するシュナイダー部隊に、背後から矢の嵐が降り注ぐ。
「クロスファイヤーポイントか……」
 思わず愕然としてしまう。
 巧妙過ぎる手腕である。これが到底ローテヴェイクのものとは思えない。
「こんな芸当ができる人間は一人しかない……」

 パルディア軍を指揮するアポロガイストは、有利な戦況に、悠然と立っていた。
「お見事です」
 呆れんばかりに、パルディア人参謀が呟く。
「……」
 アポロガイストは無言で鳥を模った仮面を向ける。そして、その奥で、赤い光が一つ怪しげに輝いていた。
「手緩いぞ。もっと矢を集中させい」
「しかし、トラブゾン攻略用に残しておきませんと……」
 その刹那、アポロガイストは参謀を突き飛ばした。
「戦いは気合だ。次のことなど考えるな!」
 そして、その激しい勢いのまま、前に飛び出すと、弓兵の一人を蹴り倒して、弓を奪った。
「シュナイダー」
 呼びかけながら、徐に矢を番える。
「俺と渡り合うには、十年早かったな」
 ぐっと引き分け、矢を頬の位置まで下げて、鋭く狙いを定める。
 そして、血生臭い戦場へと放った。
 美しい放物線を描く矢は、白馬に跨る男へと吸い込まれるように消えていく。

 突然、あらぬ方向から肩を射抜かれて、シュナイダーは落馬した。吹き出す血を手で押さえながら、駆け付けた腹心達に囲まれて、岸へと向かう。
「おのれ……。いつか必ず殺してやる」
 苦しげに囁くと、用意してあった小舟に乗り、対岸へと漕ぎ出した。

 アポロガイストは満足げに息を吐き出すと、弓を投げ捨てた。そして、唖然とした表情で取り囲むパルディア人の前で、懐から音叉を取り出し、その音色を楽しむように耳元に当てた。
「結構、楽しませてもらったよ」
 その時、川辺を一陣の強い風に吹き抜けた。舞い上がった若葉にまぎれて、ふっとその姿を消す。




続く


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